伯方の山山と小島
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大角豆島・古城島
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下記写真の場所

岩ヶ峯のお城(資料館)から見えた島に行きました。

その名は、「大角豆島」と書いて 「ささげじま」。

岩ヶ峯から北へまっすぐ海まで出たら、右折して道なりに。


大角豆島と岬はこれくらい離れています




車道はだいぶ手前の堤防沿いまでしかありません。
バイクを路駐し、浜へ降りました。
弓なりの浜辺を岬まで歩いて行きます。


おお、繋がってるぞ!




岬に着くと、この通り、島が地続きになってます!

これぞまさしく、「トンボロ現象」。
日本語だと、「海割れ」。
めっちゃ潮が引いたときにだけ現れる現象です。


靴のままで全然歩けます。




真ん中辺りで振り返って。




島に到着。

反時計回りに巡ってみました。


東側の磯も丸見え。




北側。
普段は海面下にある磯。
波に洗われて角が丸くなってます。


サンダルとか履いてたら、もう少し沖まで行けそう。


島の北側は三角形。




西側へ。


砂利っぽい浜が拡がっていました。

で、島を巡りながら、ある場所を思い出していました。

「今日なら行けるかも…」

と云うわけで、急いでバイクに戻り、再出発。

心ゆくまでお山歩を楽しんだ伯方島に別れを告げました。
最後に向かった先は、なんと、大三島。

大三島にも、海割れが起きる島があることを知っていたからです。
その島の名はー




古城島。
村上海賊の海城「甘崎城」があった島です。

愛媛県指定史跡 甘崎城跡(今治市上浦町甘崎 古城島)

甘崎城跡は、戦国時代から江戸時代初期にかけての海城です。


考古学的調査によると、遺物は15・16世紀の年代を示し、16世紀が繁栄の時期と考えられます。
戦国時代は、能島や来島の村上海賊衆の拠点として使用され、岩礁に見られる柱穴跡は、繋船施設の遺構と考えられます。
また、干潮時に見られる石列は、藤堂高虎が今治城主だった江戸時代初期に、改修させた石塁の一部と考えられます。
高さ2~3間半(1間は約1.8m)の総石垣が島の周囲を取り囲み、追手口には内枡形の縄張りが見られます。
島内では、建物の礎石や多数の瓦片も見つかっています。
元禄4(1691)年にこの沖を航行したドイツ人医師ケンぺルが、海中より聳える高石垣に驚いています。
それらの多くは、幕末期ころに地元の堤防石垣(塩田など)として使用されたようです。


トンボロを期待して急行したのですが、そんなに引いてなかった…。
春とかのめっちゃ大潮の日は、砂浜が繋がるそうです。

とは云え、せっかく来たのだから、渡りたい。

海をよーく観察すると、浅瀬が左に延びています。
堤防に降りて、左(北)に少し歩くとー




海底の砂が見える浅瀬ができてました。
早速、靴も靴下も脱いで手に持って海に入りました。

深くてもヒザの高さくらいの浅瀬。
それが5mほどの幅で島まで続いていました。
浅瀬から外れるとすぐに深くなるので、ちょっと怖かったけど。
一歩一歩、つま先で海底を探りながら歩きました。
そうやって、なんとか島までたどり着けました。




ついに上陸!
古城島側は結構、浜が拡がっていました。


ここは時計周りに巡ってみました。

でも、潮が満ち始める正確な時間が分からなかったので、大急ぎで一周しました。

島の山には登りませんでした。
時間がない中だったし、登り口も見当たらなかったので。




西側の磯。
奥に見えるのは多々羅大橋。
こっちは砂浜もあって歩きやすい。




古城島は北側に小さな島がふたつあります。
普段は海で隔絶された小島も全部、繋がってます。

岩場はカキの付いた岩もあるので、裸足じゃ危ないです。
タオルで脚を拭き、靴を履き直して散策再開。


ふたつ目の島にも普通に行けます。




ふたつ目の小島から振り返って。




ふたつ目の小島の北端。
この辺りにも、柱穴の跡が点点と残ってます。




ひとつ目の小島の東側。
全体的に、東側は岩礁です。


振り返って。




島の南端に帰ってきました。
来たときより、浜が小さくなった気がします。
潮が満ちてきたみたい。

帰りも靴を手に持って浅瀬を歩いて帰りました。

ひとりごと

このページは、お山歩じゃなく、島歩きになりました。
寄り道の寄り道です。

潮が引いて島が陸続きになる「トンボロ現象」=「海割れ」。
とても不思議な景色です。
写真で見るだけでも、わくわくしませんか。

「ゆるきゃん」ってアニメに「トンボロ」が登場します。
ゆるキャンの第2シーズン終盤、舞台は、西伊豆・堂ヶ島の三四郎島。
三四郎島は、3月~9月の大潮の頃、1時間から1時間半くらいの間、陸地と繋がります。
主要メンバーのひとり、犬山あおいが、妹・あかりに、あるホラを吹きます。
「トンボロは豚トロの仲間やでー」と。
まぁ、西伊豆はメジャー観光地なので、豚トロの屋台くらいあっても良さげですが。

古城島は、その名の通り、お城がありました。
以下に縄張り図を載せておきます。


上が大三島沿岸側になります。
島の周囲を防波堤が囲んでいたようです。


あの小さな島の上に郭が3つも。

さて、伊予の海賊は、奈良時代にはいたようです。
貞観9年(867)、清和天皇が諸国に、
「聞くに如くんば、近年伊予国宮崎村に海賊群居して、掠奪はなはだしきりなり、公私の海行これがために隔絶す」
と 命令したことが『三代実録』に記録されています。
その頃の海賊は、船を襲撃して金品を略奪するならず者集団。
取り締まりにもの凄く手を焼いたようです。

中世、戦国時代に登場した村上海賊は、ならずもの集団とは異なります。
海賊ではなく、水軍と称した方が正確です。
彼らは周辺海域の制海権を握っていました。
海上に関所を設定して通行料を徴収、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていました。
お金を払わずに通ろうとした船に対してのみ、海賊みたいなことをして懲らしめたりする程度。
豊臣秀吉から大名扱いもされました。
まぁ、後々、海賊行為の停止命令を受けたりするんですが。

さて、今回の古城島は、海割れってほどにはいきませんでした。
でも、春の大潮のときには、砂州で繋がるそうです。

あと、どちらの島もですが、砂州や浅瀬で繋がるのは、1時間ほどしかありません。
のんびりしてると、潮が満ちて帰れなくなります。
小さな島なので、1時間は充分ですが。

ビーチサンダルとか、濡れてもいい履き物を用意しましょう。
島の磯は、結構、貝殻とかあって、裸足だと切ったり、刺さったり、すりむいたりします。
海藻で滑るので、滑りづらいソールの履き物なら、更にいいです。

と云うわけで、伯方島を出て大三島まで足を延ばしました。

さあ、帰ろうってときに、地元の方が話しかけてこられ、30分くらい長話になりました。
その人は因島の方で、因島にもトンボロになる島があると教えてくれました。
島の北東部、中浜にある「八重子島 」がそうです。
う~ん、渡ってみたい。
来島海峡みたいに、すべてを押し流すほどの激流の海峡もあれば、砂州が堆積して繋がる島もある。
しまなみって不思議です。

さて、こんな不思議なトンボロ現象。
実は、人工的なトンボロなら、いつでも好きなときに見られる場所があります。

例えば、梅津寺の砂浜。
沖の堤防は「離岸堤」と云い、砂浜を回復させるための構造物です。
波が堤防を回り込むことにより、砂が運ばれ、堆積していきます。
人工的にトンボロ現象を再現したものです。

このような離岸堤は、北条から波方にかけて、たくさん設置されています。

これは、浅海の海岸部分。
沖の堤防に向かって砂浜が延びているのがよく分かります。

砂浜の素はお山からの土砂です。
でも、近年は川や谷に防災用の砂防堤やダムなどが次々にできて、砂の流出が激減しています。
波に削られる一方で、浜はどんどん痩せています。
そんな場所に、離岸堤を設置すると、トンボロ現象で砂が溜まってゆくのです。

一時、痩せてた梅津寺の浜も、この頃は、随分、元に戻ってきた気がします。
沖に堤防があるのは、ちょっとだけ違和感があるけど。
子どもの頃みたいに、また大きな浜になるといいなぁ。

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