伯方の山山と小島
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岩ヶ峯
距離 約650m
標高差 約80m
国道・県道
一般道
下記写真の場所

次は、木浦にある岩ヶ峯へ。

まず、宝股山の駐車場から東へ下りました。

バイバイ、宝股山。

くねくね、下っていくとー


宝股山トンネルの東側出口から200mほど離れた場所に降り立ちました。
ここにも、「宝股山遊歩道 入口1.6km」の看板があります。

広い道路に出たところは、交差点になっています。
叶浦、有津、北浦、木浦への道が分かれています。
トンネルをくぐる叶浦方面以外は、地図を確認しないと迷います。

有津経由で木浦に行く予定でしたのでー


写真中央の道を下りました。




あ、トンネル!

トンネルを見つけたので、ちょっと寄り道。


「産業開発隧道」


ボックスカルバート?


うーん、トンネルマニア的にはトンネルに分類してくれないかも。

このあと、有津に出て、国道317号線を海沿いを走り、木浦へ向かいました。




伯方の名産・塩を使った塩ラーメンの名店「さんわ」本店。

さんわさんがある通りは東向きの一方通行になっています。
木浦の町の道は狭いので、町をぐるっと回るよう、一方通行になってます。




伯方港の埠頭で一休み。
自販機でコーラを買い、海を見ながらごくごく。

穏やかで静かな海面を見ると、クサフグがのんびり泳いでました。

目指す岩ヶ峯が目と鼻の先です。
手前の海沿いを左から右に走り、写真右側の麓を奥へ向かいます。




岩ヶ峯の東麓、伯方造船の横を奥へ。

お山くらい背の高いクレーンがいくつも。

伯方島は造船の島でもあります。
さっき休んだ埠頭の方には村上秀造船のドックがあったりします。




谷を抜けたところに上り口があります。


「ふるさと歴史公園」の看板が目印。

左にくぃっと曲がりー


坂道をうにゃっと上ります。




左にぐるっと曲がって坂が終わり、平らになりました。
その左カーブの内側にー


ベンチがありー


「← 岩ヶ峯古墳 すぐそこ」の看板。

バイクを駐めて古墳を見学に行きました。




柵で囲まれた一画が古墳のようです。

伯方町指定文化財  岩ヶ峯古墳

 平成元年(1989)、岩ヶ峯山頂の平坦地(木浦城本壇跡)で発見された6世紀後半(古墳後期)の横穴式円墳。
築城時に除去されたと思われる墳丘の直径は約13メートルと推定される。
石室内より多量の土器鉄器などが出土したが、とりわけ製塩土器(本県初の出土)や多量の武具(鉄器)が出土していることから、当地の海人族の大首長の奥津城(墳墓)として注目されている。

(なお、詳細資料は、ふるさと歴史公園居館内に展示しておりますので、ご覧下さい。)

伯方町教育委員会


横穴式円墳の名残みたい。


石だけが残されています。

さて、岩ヶ峯の山頂は公園として平らに整備されました。
なので、古墳のカーブまで来れば山頂に来たも同然です。



岩ヶ峯山頂には、木浦城を再現した伯方町郷土資料館が建ってます。
左隣の建物も資料展示館。


造船の島らしく、大きなスクリュー。


威風堂々とした、まさにお城。
まぁ、木浦城には天守はなかった気もしますが。


資料館のずっと後ろは駐車場。




真後ろは庭園っぽい。
こっちにもスクリューがあります。


見下ろすと、伯方造船の造船所。

では、お城な資料館を訪ねてみます。


なんといっても、入場料が無料!

この規模で500円くらい平気でとるミュージアム、普通にあります。
とっても良心的。


1階は、園内から出土した石器や土器などの資料が展示されています。

伯方島って、想像以上に古墳が多いことに驚かされます。
瀬戸内海がまだなかった、愛媛と広島が陸続きだった頃に移り住んだ人が多かったんでしょうね。


中央に階段があります。


ぐるぐる。


3階は、建物の外周をぐるっと歩ける展望回廊。

東南側のパノラマ。
伯方港が眼下に。

北東側のパノラマ。
上島町の岩城島など、ゆめしま街道の島島。

北西側のパノラマ。
宝股山も見えてます。
奥は生口島。

南西側のパノラマ。
奥の山並みは大島。


宝股山。
「伯方富士」の別名は、木浦から見ると富士山みたいに見えるから。
そんなに富士山っぽくないけど。

海が拡がる北の角からの眺めが一番かな。

なんて、ぼんやり、海を眺めてたらー


ん? あの島はなんだ…。
浅瀬が手前に延びてる気が…。

このあと、行きます。




お城の隣の「ふるさと歴史公園展示館」も覗いてみました。


製塩業や海運業など、伯方島の産業や文化が紹介されてました。

ひとりごと

冒頭で、伯方島には縄文・弥生の古墳が多数あると書きました。
これはホントです。
縄文前期・中期の遺跡は、この木浦、叶浦、熊口で発見されています。
後期のものになると、海岸線の平地の大部分で遺跡が見つかっています。
弥生時代の遺跡は、宝股山や開山、大深山、この岩ヶ峯など、お山の上でも見つかっています。
大深山・開山・岩ヶ峯の遺跡は、高地性集落遺跡とみられています。
人が増えれば、宅地や畑が山の上へと進出していくのは、現代の住宅地開発と一緒です。
その一方で、よそから襲撃を受けたときに逃げ込む場所だったり、宝股山みたいに祭祀の場所だったり。
ほかにもいろいろ考えられるようです。

また、岩ヶ峯の西側辺りは「久留米木」と云うそうで、それは、「久留米城」と呼ばれた軍事施設に由来するのでは、って話もあります。
その久留米城の機能は、「木浦城」へと受け継がれたのでしょう。
木浦城ができた頃、有津や叶浦にも城があったようです。
でも、それらの城は一旦、姿を消します。
理由は定かではありませんが、歴史から消えてしまいます。

その後、戦国時代になって海賊衆が活躍し出すと、再び、お城、出現。
木浦の城も大型化して再登場。
文献はないのですが、時代背景的に、紀六郎太郎と云う人物が城主だったのではと考えられます。
紀氏は、当時の制海権を握っていた一族です。

ちなみに、地名の「木浦」は「紀の浦」が語源とみられています。
紀六郎太郎、つまり、往時の支配者だった紀氏の「紀」の字がモチーフだったと云われています。

村上・来島海賊らが勢力を伸ばす頃には、島のお城は海賊城と呼ばれるものになりました。
でも、四国本土のお城みたいに、城主が常駐したり、籠城するためのものではありませんでした。
物見台や狼煙台としての機能の方が重要視されたようです。
海賊ですからね。
いざとなれば、城にこもるより、海に逃げた方がいいに決まってます。
海は敵の侵入を防ぐ最大の防御施設であるとともに、最高の逃亡ルートです。

木浦城の縄張り図を載せておきます。

郭が5つもあります。

木浦周辺には、金ヶ崎城や伯方新城(沢津館)など、最低でも13ヵ所も城砦がありました。
島全体でも23ヵ所もありました。

そんな木浦城を再現したかのような資料館。
意外と立派で、びっくり。
上でも書いたけど、入場料が無料ってのもうれしい。
最近、四国各地の美術館や資料館を巡って「ミュージアムカード」ってものを集め出しています。
(このふるさと歴史公園はカード配布施設じゃありません。)
20ヵ所くらい、集めまわりました。
なかには、こんな貧弱な資料で、どうして500円もとるの?って施設も、正直あります。
僕が興味のない分野だから高く感じたってわけじゃないですよ。
疑似お城な建物に、古代の遺物の展示ってだけでも、200円とられても僕は納得しちゃう。
回廊からの眺めも素晴らしいし。

心地よい海風に吹かれながら海岸線を遠望していたら、あの島が目に入りました。

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