宝股山・トウノ峰・岩ヶ峯は、伯方島にある山山です。
瀬戸内海国立公園。
伯方島は、愛媛県と広島県の間、瀬戸内海に点在する島々・芸予諸島のひとつです。
(狭義では、越智諸島。)
現在は、「しまなみ海道」と呼ばれる、今治市と尾道市を結ぶ西瀬戸自動車道が通る島です。
位置的には、大島と大三島の間です。
島の周囲は、32.2km、面積は19.45平方km。
約2万年前の氷河期は、海水面がいまより130mほども低く、瀬戸内海はまだ存在していませんでした。
日本列島と大陸が地続きで、芸予諸島の辺りも陸続きでした。
高縄半島から広島県の沼隈半島を結ぶ山並みを形成していました。
マンモスなどの大型動物も陸続きだった部分を通って四国へ渡ってきていました。
約1万年前、気温の上昇とともに海水面が上昇し、海水が浸入。
紀元前6000年頃、現在の瀬戸内海海域が形成されたと考えられています。
海水面はさらに上昇し続け、紀元前4000年頃は、現在よりも3mほど高かったことが分かっています。
現在とほぼ同じ高さになったのは、紀元前3000年頃です。
島々の海岸線が入り組んでいるのは、海水面の上昇によって海面下に没した昔の谷の名残です。
地質的には粗粒質花崗岩です。
花崗岩は波の浸食を受けやすく、海面上昇に伴い、浸食され、海面低下後は沖積平野を形成しました。
「縄文海進」と呼ばれる縄文時代の海面上昇期は、今よりも数℃以上気温、水温が温暖な時期であったとみられます。
島々でも縄文文化が発展し、人々の営みは弥生時代にも引き継がれました。
その証拠の縄文・弥生期の遺跡が島内でも多数、発見されています。
宝股山山頂には巨石、奇岩が群立し、当時の巨石信仰のシンボル「メンヒル」遺跡とする説もあります。
周辺から弥生中期の土器破片などが発見されています。
考古学的に巨石崇拝に関係する遺跡である可能性は高いです。
弥生時代の瀬戸内海周辺は特に、軍事防衛敵に有利な山頂や尾根などに高地性集落が形成されました。
岩ヶ峯の山頂で発見された岩ヶ峯古墳は、古墳時代のものです。
塩を製造するための器「製塩土器」が完全な形で発見されています。
戦国時代は村上水軍の城砦が置かれました。
木浦にある禅興寺は、能島村上水軍の祖である村上雅房公によって永享2年(1430)に創建されました。
能島村上氏の村上雅房の菩提寺で、墓所にそびえる大楠の根元には雅房夫妻の墓があったと伝えられています。
岩ヶ峯古墳から製塩土器が発見されたように、伯方島では古来から製塩が行われていました。
縄文・弥生時代は、海水を煮詰める「直煮製塩」。
室町時代は、砂の上に海水を運んで天日干しする「揚浜式」。
江戸時代は、海の満ち引きをそのまま利用して海水を塩田に取り込む「入浜式」。
江戸中期には日本有数の塩田地帯となりました。
現代は、伯方塩業株式会社の「伯方の塩」 が有名です。
島は、戦前戦後は機帆船の製造で栄えました。
機帆船は、エンジンも積んだ帆船で、1960年代までは沿岸航路の貨物輸送に活躍しました。
ニーズが機帆船から小型鋼船に移行すると、 伯方島の造船所はいち早く切り替え。
愛媛県の海運業発展のパイオニアとなりました。
木浦には、伯方造船を始め、造船メーカーが集中しています。
海運業は島を代表する地場産業のひとつとなっています。
島の西部をしまなみ海道が通っています。
全長約60kmの自動車専用道路の全線開通は、平成18年(2006)4月29日です。
まず、伯方島と大三島を結ぶ大三島橋は昭和54年(1979)に開通しました。
伯方島と大島を結ぶ伯方・大島大橋の供用開始は、昭和63年(1988)1月17日です。
昭和20年(1945)11月6日、木浦港沖で発生した第十東予丸沈没事故は、しまなみ海道建設のきっかけになったとも云われます。
定員210名の3倍を超える乗客を乗せていた第十東予丸は、荒天の突風を受け、木浦港約2キロ沖合いで転覆沈没。
死者・行方不明397名を出す大惨事になりました。
そのほか、死者・行方不明113名を出した第五北川丸沈没事故など、海難事故が架橋運動が盛り上がるきっかけとなったことは否めません。
ちなみに、本州四国連絡橋も同様に、海難事故によって架橋運動が盛んになりました。
宝股山は、伯方島の最高峰です。
木浦側から見ると正三角形で姿がよく、「伯方富士」とも称されました。
当初は、「鉾山」と呼ばれていました。
「宝股山」は、南麓にある西明寺の山号「宝股山」が始まりだと云われています。
山頂には巨石が点在し、古代巨石信仰の御神体山・神奈備のお山として信仰を集めました。
しまなみ街道開通に合わせ、山頂麓をぐるっと取り囲むような遊歩道が整備されました。
けれど、自然災害などにより、各所で崩落し、現在は通行不可となっています。
山頂からの見晴らしが素晴らしく、瀬戸の多島海を一望できます。
トウノ峰は、宝股山のすぐ西にあるお山です。
宝股山の駐車場から登ることができ、山頂には、石仏やお堂が建ち並んでいます。
岩ヶ峯は、木浦の港を見下ろす小高いお山です。
山頂では、古墳時代後期の横穴式円墳が見つかっています。
墳丘の直径は約13まり、製塩土器なども出土しています。
また、伊予の豪族である河野通信の家人だった紀氏が築いた「木浦城」の城跡でもあります。
木浦城は、戦国時代、村上水軍の持城となり、同じく木浦にあった伯方城の出城のひとつとして使われていました。
現在、山頂は「ふるさと歴史公園」として整備されています。
木浦城を復元した建物「伯方歴史民俗資料館」が建っています。
※建設当時は城門も復元されていましたが、現在はありません。
伯方歴史民俗資料館には、岩ケ峯古墳の出土品や伯方島の歴史、文化などの資料が展示されています。
伯方島の名所を八ヵ所抜粋した「新伯方八景」に、宝股山とふるさと歴史公園として岩ヶ峯が選出されています。
伯方島西部には、潮が引くと陸地が現れて陸繋島になる大角豆島があります。
年に数回、大潮の日の数時間だけ、地面が現れ、歩いて渡ることができる、「トンボロ現象」=「海割れ」を体験することができます。
同様に、「海割れ」したときだけ渡れる小島は、大三島にもあります。
古城島と呼ばれるその島は、村上水軍の拠点の一つ「甘埼城」がありました。
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