横倉山
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南遊歩道~夫婦杉~第3駐車場
距離 約1.3km
標高差
(最高)
約70m
距離 約500m
標高差
(最高)
約80m
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所
水場

横倉宮から南遊歩道を東に向かって歩きます。
南遊歩道は横倉山の稜線をたどるコースになっています。

「←三角点 0.6km カブト嶽 1.3km 織田公園 2.2km」

歩き始めは、下り坂ですがー


少し先に小ピークがあり、軽く登りー


そして、また下ったと思ったらー


また登るという、うねうねした尾根です。


途中に丸太のベンチがあったり。



下った遊歩道が再び登り始める鞍部へ。
ここは、通称「青ぬた」。

左斜め後ろに道が分離合流するポイントです。


「←横倉宮 0.3km 織田公園 1.9km→」
「←田口社」

田口社方面に左折すると、杉原神社と御陵参考地を結ぶ遊歩道へ降りられます。
三角点に行きたくない人、三角点から引き返して下の遊歩道に降りたい人はー


この、田口社へ向かう道へどうぞ。


僕は南遊歩道へ。

「←三角点 0.3km カブト嶽 1km 織田公園 1.9km」

ここからまた上りになりますがー


注意看板が立っています。

注意!

これより先(下り)は、横倉山県立自然公園の遊歩道ではありません。
従って、道もあまり整備されておらず、山中に迷い込む恐れがあります。
その為、案内者不在の方は危険を伴いますので、立ち入りを控えてください。

(現在地名称:青ぬた)

佐川警察署・高吾北消防署・越知町

…だそうです。

でも、南遊歩道って名前なんですよね、昔から。

まあでも、お山歩初心者は、案内と地図をにらめっこして、慎重に!

僕個人的には、ずっと尾根をたどるルートなので、迷いそうなところはなかったです。
それより、ずっと先のカブト嶽付近の崖っぽい場所の方が危険でした。


右下がりの斜面を右にカーブしつつ登ります。


御陵参考地の階段に比べたら、楽ちん。



横倉山ピークの緩斜面尾根に乗りました。


倒木を乗り越えー


丸い尾根の上を外さないように歩くとー


また階段がありますが、これを登れば三角点はすぐです。



ベンチやテーブルセットがある、ここが横倉山三角点ピークです。


三角点より先に、SONIA看板がお出迎え。
「29 横倉山三角点」


三角点は、なぜか、擬木の柵でガードされています。


「金峰山」三等三角点、標高は、774.55mです。

山頂のパノラマ。
南北に長い楕円形をしています。


さて、次は「カブト嶽」へ。

三角点の柵の脇を木立の中へ入ります。

この先は、基本、下り坂です。


いかにも尾根っぽい尾根の上をたどります。
こういう、木や草が生えていない尾根は歩きやすくて、気持ちがいい。



四国のみちの案内。


ゴロゴロと石灰岩が露出。



左にくいっと道が分岐する三叉路。

ここもちょっとした鞍部地形。


尾根向きの案内。
「←横倉宮 1.1km 織田公園 1.1km→」


左に分岐する道向きの案内。
「夫婦杉→」

  

カブト嶽と“土佐桜”石灰岩

カブト嶽
ここを左へ登った馬の背のような眺望の良い岩場がカブト嶽である。
4億年以上も前の日本最古の火山活動による火砕流堆積物(溶結凝灰岩)からできている。
かつての修験道の行場の一つで、現在もその名残として鉄の鎖がかかっている。

“土佐桜”石灰岩
横倉山に分布する石灰岩は、4億年前の日本最古のもので、淡いピンク色をし“土佐桜”の愛称で昭和40年代まで盛んに切り出され全国の建築用石材として使用されていた。
南斜面の山頂付近に数箇所の石切り場があったが、その中の一つには現在も切り出されたままの原石が残され、当時の様子を偲ばせている。

この先カブト嶽周辺は岩場の多い所です。
十分注意してください。

カブト嶽直前は、軽い登りです。


坂の上に大きな岩があり、その左脇を進むとー


岩の脇にたたずむ小祠が。


祠の中は空っぽ。

これはカブト嶽の祠じゃありません。


「大正四年」の文字はかろうじて。


滑りそうな急な下り。


「右 石鎚神社まで約50米 徒歩5分」


大岩の右をスルー。

尾根の左右に大きな木が生えていないほど、左も右も急斜面。
よそ見してると危ないゾーンです。
注意して進みましょう。


なんとなく尾根が細いのが分かるでしょうか。


露頭した岩盤の上を歩くとー


前方に越知の町が急に目に入ります。
目前の岩をそうっと降りるとー



カブト嶽の石鎚神社に到着です。


ポールには、「かむと嶽石鎚神社」。
「カブト」じゃなく「かむと」、「だけ」じゃなく「だき」


ちゃんと中身がある小祠。
合掌。


石仏。
石鎚蔵王大権現さまかな。


東に急激に下る尾根には、鎖がありました。

カブト嶽と第1駐車場の第1登山口(仮称)の間には鎖場があります。
危険な岩場が連続します。
細心の注意が必要な区間です。

あと、このカブト嶽の部分だけ、迂回路があります。

ここを下ってしまうと、第3駐車場に戻るのが大変です。
なので、僕はこの先へは下りませんでした。
高い所、怖いし (-_-;)

ここから見えるパノラマ。
霞んでなけりゃ、石鎚山も見える。
今日はだめでした。


南遊歩道は、この眼下の尾根の上をたどっています。


東の山並みの向こうー


ちらっと見えた、高知市内。

では、引き返します。


手前の小祠から下ってきた急坂。
これを登り返し、小祠の前を通過しー

夫婦杉への分岐まで戻りました。

夫婦杉の方に分かれた道を下ります。
下ると、夫婦杉のところで表参道と合流します。
高度差は80mほど。


ぎゅーぃーんと下って行きます。
南遊歩道は尾根上ですから、尾根から谷に降りる感じ。



左に石灰岩の大きな壁、「屏風岩」です。

屏風岩の真下に沿って進みます。


高さ2、30mはあるかな。

どれだけの量のサンゴが積もれば、これだけの石灰岩ができるんだろう。
10万年くらいは平気で必要なんだろうなぁ。

ちなみに、この屏風岩の近くに、日本最古級の化石が出る場所があります。
内緒ですが。
と云うか、化石を見つけても勝手に持って帰っちゃいけない地域です。



やがて、石段が見えて、夫婦杉と表参道に出会います。


右の注連縄が巻かれているのが夫婦杉。


2本(正確には1+2)のスギに注連縄が巻かれています。

当然ですが、写真右の根元でくっついてる方が夫婦杉です。
左のスギとで夫婦杉、ではないです。
根元とかで合体しちゃってるスギを夫婦杉っていいますから。

夫婦じゃないから、間を裂くように表参道の石段が通ってるでしょ。


林道からここまで、375段。
杉原神社まで、残り232段。


夫婦杉は、横倉山で3番目に大きなスギ。


いま下ってきた道の案内。
「左 屏風岩を経て遊歩道に連る(約500米)」


「←表参道入口 横倉宮→」

ひとまず、横倉宮方面へ、石段を登りました。



3、40段登ったところにあったー


御手洗(みたらし)
「御手洗跡(杉原神社参拝者が浄め水として使用)」

水はほんのちょっぴり、湧きだしてました。
手を洗えるほどではなかったです。

御手洗

かつて参拝者が、手や口を清めた所(泉)で『南路志』には「山守より30丁はかり也。
紅葉の大木有。
此泉鏡のことく、参詣のものここにて垢離をする。」とある。

みたらしやむすはぬさきに涼しさも

最近整備されたが、その時点で参拝客が投げ入れたと思われる江戸時代の「寛永通宝」が出土した。

このまま、表参道の石段をたどって行こうとも考えたのですがー


「杉原神社(近道)右」
こんなものが目に入ってしまったらー


行っちゃうよね~。

御手洗から右へ向かう「近道」へ。

なんか、山道。


ホントに近道?
と、心配になっていたら、谷を下から登ってくる道が目に入りました。



コンクリート舗装された遊歩道と合流。

第2駐車場で、2輪車進入禁止の貼り紙が登山口にあった、あの遊歩道です。


これ、これ。


錆びた手すりもある遊歩道。
階段じゃないから、自分の歩幅、ペースで歩けるわ。


でも最後は擬木の階段になってー



杉原神社に帰ってきました。


お山歩の無事を感謝し、また来られますようにお願い。

参拝後、第3駐車場へ、昼イチに登ってきた道を下って戻りました。



第3駐車場の登山口に無事、戻りました。

駐車場は、僕のバイクが一台あるっきりでした。

この時点で僕はまだ、昼食してませんでした。
なのでー



織田公園の展望台で、遅すぎる昼食をしました。


眺め納め。



帰りに気づいた、林道途中にある「大樽の滝 眺望地点」


見える?


あ、なんか、見えた。

2017年に訪ねた時の大樽の滝を最後のおまけに載せておきます。


駐車場から500m。
遊歩道を15分ほど歩きます。


いい滝です。
横倉山のお山歩ついでにお勧めします。

と云うことで、横倉山のお山歩終了です。

平家の落人伝説が実体として残る横倉山。
遊歩道も整備され、高低差もそんなになくて楽ちん。
見どころもたくさんで飽きない山行が楽しめました。
松山からは遠いけど、マイカーある方なら、そんなに苦にならないのでは?

横倉山、いいお山歩できました。

このあと、原付バイクで松山まで、ゆっくり、帰りました。
途中、中津渓谷にある温泉「湯の森」に入って帰りたかったけど、
コロナ禍だったのであきらめました。

帰宅は夜8時半でした。
お山歩より、遠いのが疲れたかな (^_^;)

ひとりごと

そうそう。
馬鹿試しとか住吉神社とか眺望所とか、あちこちで下に見えてた桐見ダムです。


ダムカードももらえるので、こちらの寄り道もおすすめ。
ダム横の管理事務所でもらえます。
時間は、9:00~17:00。
玄関のインターホンで「ダムカードが欲しいんですけど」と。
1人1枚です。

さて、横倉宮から南遊歩道へ。
基本、尾根歩きで、尾根歩きは気持ちが良い (^_^)
残念ながら、稜線はずっと木が生い茂っているので、見晴らしいいところは少ないけど。
ちょっとアップダウンするけど、ひと山登るほどじゃない。
三角点は、御陵参考地とか横倉宮の中嶽、眺望所の畝傍山、住吉神社の日置嶽に比べたら、標高は低い。
帰路として歩くなら、下るので、楽です。
でも、さらに第1駐車場まで下っちゃうと、第3駐車場まで林道歩きしなきゃなりません。
それはちょっとしんどいかな。

また別の機会があったら、今回とは別のルート取りすると思います。
でも、次は、なるべく早く、第1駐車場からスタートし、南遊歩道で入山。
元気なウチに鎖場を登ったのち、横倉宮、御陵参考地、住吉神社へ。
行在所、安徳水、杉原神社と巡り、表参道で第2駐車場へ下り、林道で織田公園を経由して第1駐車場に。
この方向で巡るのも魅力的です。
今回は、高度を稼ぎたかった(楽したかった)ので、第3駐車場スタートとなっただけですし。

また、横倉山南斜面には洞窟やら石切り場やら、まだ見ぬものがたくさんあります。
でも、遊歩道のように道は整備されていません。
その分、人があまり入らなくて、新鮮な驚きに満ちていると思います。

あと、畝傍山眺望所手前で西へ向かう三嶽古道。
近年、地元の方達が登山道整備をされ、古道が復活しつつあります。
林道横倉長者線と第2・3駐車場に向かう道の分岐から5.2km、砂防ダムがカーブまで古道は続いています。

横倉山は、修験道の道場だったり、伝説の地として歴史が深い分、道も豊富です。
道のバリエーションが豊富な分、いろんな楽しみ方ができるお山です。

さて、僕はお昼にスタートしてからずっと、ご飯を食べずに歩いてました。
畝傍山眺望所のベンチとか、いま思えばいい所だったので、あそこにいたときは全然、ご飯のこと、忘れてて。
で、最終的に、織田公園でご飯。
まぁ、バーナーでお湯沸かさないと食べられないようなものを買ってたし。
(日清のカレーメシ)
風が吹かなくてバーナーが使える平らなとこ、あと、虫が来ないとこ…。
選り好みしているうちに、下山してました。
三角点の前くらいで、とっくにエネルギー切れしてたんだけど。
横倉山は見どころが次々に現れるから、飽きなくて、歩き続けてても苦にならなくて。
石鎚山みたいに、見晴らし以外、なにも変わらない片道2時間半黙々歩くとかじゃ、とっくに音を上げてたでしょう。

また、行けるといいなぁ。

さて、さて。
ちょっとここから、安徳天皇の逃避行についての、つたない妄想です。
安徳天皇が落ち延びたことが真実だとしたら…。
真面目に考えたわけじゃないけど。

まず、安徳天皇に従った平知盛のこと。
平知盛は、平清盛の四男で、母は平時子。
壇ノ浦の戦いで、平家軍の惨敗を見届け、入水、自害します。
ちょっと脚色のある史実では、鎧を二重に着込んだり、船のイカリを背負って入水します。
もし、遺体が晒し者にされるのを避けるため、二度と浮かばないようにしたようです。
でももし、彼がニセモノ、影武者だったら…。
ホンモノの知盛は、屋島の戦いのあと、四国山中に落ち延びていたとしたら…。
重りを身にまとい、入水したのは、遺体が検分されると影武者だと分かってしまう恐れがあったからなのでは、と。

壇ノ浦の戦いでは、知盛のように入水したり、多くの武将が命を落としました。
一方で、自害しなかった武将もいます。
忠盛の兄の平宗盛です。
息子の清宗とともに助かっています。
史実では、なかなか入水しないので、ドンと海に落とされたけれど、泳いで源氏に助けられたとか。
その後も、頼朝に謁見した際にめっちゃ命乞いしたとか、ちょっと、情けない。
でも、彼があの場面で死ななかったのは理由があるのでは、と考えたわけで。
それは、戦いのあとに行われるであろう、遺体の首実検で、偽証できる人が必要だからではないか、と。
当時は、写真とかSNSとかテレビとか当然存在しません。
もし影武者にすり替わっていたとしても、それを看破できるものが、源氏方に何人いるでしょう。
大抵は、いい鎧を身につけている遺体は、きっと名のある武将だろうってことで、まずは分類される。
そこに、生存した宗盛の証言が加われば、「知盛は死んだのね」ってことになる。
さらに、生き恥さらせば晒すほど、潔く死んだ武将らが立派に見えると同時に、死んだことが事実化されていく。

一方、入水した安徳天皇の遺体は、後日、漁師の網に引っかかって、回収されます。
高価な素材でできた衣をまとった子供の遺体だから、きっと、安徳天皇さまだろうって感じ。
天皇は、常に御簾の向こうにいて、そのお顔を拝することができるものは、宮中であってもごく少数でした。
安徳天皇の顔を知っている人なんて、滅多にいない。
遺体が替え玉であっても、そんなの、誰も分からない。
ちなみに、安徳天皇の正式な天皇陵は、壇ノ浦のすぐ側の赤間神社です。
引き揚げられた遺体が一時的に安置された場所です。

あと、杉原神社の裏の平家の宮は、山中に点在していた従者88名の祠を合祀したものです。
横倉山は、お山と云っても、標高は7、800mほどしかありません。
そんな場所に、100人近い人間がいたら、どうでしょう?
食べ物も必要だし、日用品の調達やらで、どうしても下界と接点を持たねばなりません。
隠れていられるものでしょうか?
源氏方による平家の落ち武者狩りも行われていました。
密告者には褒美も出たでしょう。
そんな状況下で、安徳天皇は、徳島の祖谷から大川、本川、椿山、都、そして横倉山へと転転としてきました。
噂になるのは時間の問題だと思います。
逃げ続けるのも限界があります。
じゃあ、どうすれば、噂にならずに済むのか…。
そこで思いついたのがー

集落ひとつ、まるまる、入れ替わること。

入れ替わると云ったって、全住民、どこかに引っ越ししてもらうってわけじゃありません。
住民を皆殺しにして入れ替わってしまうのです。
できれば、下界と隔絶した、人の往来が滅多にないような集落がベスト。
安徳天皇が転転とした集落は、結構、当てはまる所が多かったりします。
住民を皆殺しにしたあとは、親戚など、住民を知る者が訪ねてきたら、残らず捕らえ、殺してしまいましょう。
オオカミやクマに襲われただの、なんなら神隠しに遭ったってことにすることは、現代よりはるかに簡単です。

そこで、重要になる人物が、知盛と共に伝説に登場する武将・田口成良(しげよし)
彼は、平家政権下で特に阿波にて勢力を拡げた武将です。
四国内での逃避行にはもってこいな人物です。
隔絶された集落を、密かにまるごと乗っ取ってしまうようなことができる存在です。
とは云え、一方で彼は、平家物語の中では土壇場で寝返った大裏切り者として描かれています。
壇ノ浦の戦いで、300艘の軍船と共に源氏側に寝返ったのです。
平家軍の敗北を決定づけた立役者のひとりです。
なのに、戦後、成良は主君を裏切った大不義不忠を罪とされ、ついには籠に入れられ、焼き殺されてしまいます。

さて、住民皆殺し入れ替わり大作戦が行われたとして、成良の勢力下にあった阿波のどこかが最適だったか。
最初期に潜伏したとされる山城谷か、祖谷が、やっぱり最適でしょう。
実際、自分たちは平家の落人の子孫だと自称する人も少なくありません。
さらに、替え玉部隊を編成して、西へ逃げてもらいます。
いかにも落人らが潜んでいそうな土地勘のある修験道の山伏たちに協力してもらい、ニセの逃避行。
でも、山伏達はホンモノだと思い込んでる。
阿波から遠ざかる方向で逃亡しつつ、さりげなく、気配を残していく。
源氏の追っ手を惹きつけるエサです。
で、なんだかんだあって、最終的に行き着いたのが、横倉山。
ホントは替え玉部隊だったのに、結局、何年も安住できてしまった…。
反源氏な土地柄だったのかな。

あ、そうそう。
四国カルストの大野ヶ原に源氏ヶ駄馬って場所がありますね。
平家一行が石灰岩を、源氏の白馬、源氏の旗の色・白と見間違えて、逃げ去った伝説の地。
敗者って切ない。

この記事を書いている2022年現在のNHK大河ドラマは、『鎌倉殿の13人』です。
ちょうど、鎌倉幕府誕生を描いています。
壇ノ浦での安徳天皇入水のシーンも描かれました。
義経が亡くなる回とか、泣けたなぁ。
平氏の滅亡と並行して、権力欲に取り憑かれていく源頼朝を描くのは新鮮ですね。
それにしても、暗殺とか、戦以外の場面で重要人物が次々に死んでいく…。
粛清の嵐。
最終的に生き残るから北条義時が主人公になったかのような、実にダークな大河ドラマ。
もし、安徳天皇らが生きていたことを知ったら、この大河の頼朝なら、決して許さないだろう。
でも、義時なら、見逃してくれそうな気がする。

以上、妄想でした。
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

あと、「横倉山へ行こう!」は、「お山へ行こう!」、数年のブランクを経て久しぶりに書いたお山歩記事でした。
キーボードで長文打つのも久しぶり。
書き始めた頃は、キーの打ち間違いを連発。
打てば打つほど、ブラインドタッチの感覚も取り戻してきました。
言葉選びのセンスもちょっとだけ、戻ってきた気がします。
でも、文字情報以外の部分が、面倒くさいことだらけ。
改めて、こんな面倒な構成のホムペをよく続けてたもんだと、自分ながら感心してます。
ただ、写真と山行記を載せるだけの、簡潔な構成にしてればよかった…。
ヤ○ップとかヤ○レコとか、図書館行ってお山の資料を漁って得た情報とか、載せる人、少ないもんね。
誰かのサイトをコピペして紹介終わり、みたいな。
うちのサイトも結構、コピペされまくってます。
数年前、愛大の某ゼミが、「○山へ行こう!」の登山道の地図をコピペしたPDFをネットに公開してた。
なんのことわりもなく、です。
コピペ、丸写しは下品です。
一旦、頭の中で咀嚼、整理して、自分なりの言葉で綴って欲しいなと思ったりします。

あ、ついつい、心の声が漏れてしまった (^_^;)

と云うわけで、「横倉山へ行こう!」を読んでいただき、ありがとうございました。
横倉山に行ってみたいと、少しでも思っていただけたら幸いです。

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