南麓・越知町越知から
カブト嶽。
横倉山(よこくら・よこぐら、やま、または、さん)
高知県越知町
標高774.6m
別名・金峰山、三嶽山
▲山頂の三角点
点 名 金峰山
種別等級 三等三角点
地形図 高知・上土居
緯 度 33°32′05″.9048
経 度 133°12′30″.0295
標 高 774.55m
所在地 高知県高岡郡越知町大字越知字金峰山

横倉山は、平家落人伝説がいまなお息づくお山です。

花の百名山。

高知県越知町にある横倉山は、愛媛の面河川が県境を越え、仁淀川に名を変える辺りにあります。

「三嶽山」の別称があるように、横倉山はいくつかのピークを総称した山名です。
三嶽とは、「かぶと嶽」、「日置の嶽」、そして「中嶽」です。
パンフレットや解説看板などでは、「金峰山」三角点があるピークを山頂扱いすることが多いようです。
そのほか、見晴らしのいい眺望所がある「畝傍山」もあります。
日置の嶽や中嶽、畝傍山、御陵参考地のあるピークなど、三角点よりも標高が高いです。
地形図上では、社がある中嶽に横倉山と記されています。

横倉山を形成する地層は、日本有数の最古級です。
西予市と同じ「黒瀬川構造帯」に属します。
黒瀬川構造帯は、大規模な断層帯です。
九州から四国を経て関東に至る、総延長1,000kmにも及ぶ特異な地層です。
ちなみに、初研究の地・城川町の旧地名「黒瀬川村」が名の由来です。
4億3000万年~4億2000万前、南半球にあったゴンドワナ大陸の一部だったと考えられています。
別名は「黒瀬川古陸」です。

地球の表面は、「プレート」呼ばれる、十数枚の硬い岩盤に覆われ、数億年単位の時間をかけ、分裂と合体を繰り返しています。
日本列島は、北米プレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、そしてフィリピン海プレートの計四つのプレートの上にあります。
四国は、ユーラシアプレート上にあります。
プレートは移動するマントルに引きずられる形で移動しています。
ユーラシアプレートの下に沈み込む形でフィリピン海プレートが移動してきています。
フィリピン海プレートは海洋プレートです。
海の堆積物など、いろんな岩石を運んできましたが、横倉山もプレートの移動により、現在の位置に運ばれてきました。

横倉山からは、4億年以上前の「コノドント」と呼ばれる日本最古の化石が見つかっています。
コノドントは、カンブリア紀から三畳紀紀(約6億年前から1億8千万年前)の海に生息した生物の歯の化石です。
ウナギのような体をした、もっとも初期の脊椎動物の魚類でした。
時代ごとに独特な形、角状、複歯状、 板状など、様々なものが現れました。
そのため、地層の堆積年代を決定づける「示準化石」として重要視されています。
日本の地質学では、3億年前後の古生代デボン紀がもっとも古い地質時代とされていました。
横倉山から4億年以上前のコノドントが発見されたことで、地史は1億年以上、遡ることとなりました。
コノドントのほかにも、三葉虫、クサリサンゴ、ハチノスサンゴ、ウミユリなどの化石が発見されています。
全国的に建築用石材として使用されていた「土佐桜石灰岩」と呼ばれる、ピンク色した石灰岩から見つかります。
※横倉山では、化石採取は禁止されています、あしからず。

横倉山は「花の百名山」に選定されるほど、緑豊富なお山です。
自生するアカガシの原生林や、百年単位の樹齢のスギの大木などに出会えます。

日本の植物学の基礎を築いた植物学者・牧野富太郎博士の植物観察・研究のフィールドでもありました。
牧野富太郎は、越知町の隣町・佐川町の生まれです。
博士が新種として命名した植物があります。
代表的なものに「ヨコグラノキ」や「ヨコグラツクバネ」、「コオロギラン」などがあります。
ヨコグラノキは、横倉宮の裏にある「馬鹿だめし」の断崖に行く途中に生えています。

岩石や化石、貴重な植物などは、山麓にある「越知町立横倉山自然の森博物館」で知識を深めることができます。
ちなみに、著名な建築家・安藤忠雄氏の設計した建物です。
いかにも安藤忠雄氏の設計らしい、幾何学的な造形のコンクリート打ち放し建築です。

横倉山山上には、「安徳天皇陵墓参考地」があります。
宮内庁指定の安徳天皇陵墓参考地です。
(高知県内唯一の宮内庁所轄地でもあります。)
全国に5ヵ所存在する宮内庁指定の安徳天皇陵墓参考地のひとつです。
ほかの4つは、
・宇倍野陵墓参考地「岡益の石堂」 - 鳥取県鳥取市国府町岡益
・西市陵墓参考地「王居止御陵」 - 山口県下関市豊田町地吉
・佐須陵墓参考地 - 長崎県対馬市厳原町久根田舎
・花園陵墓参考地 - 熊本県宇土市立岡町
横倉山の陵墓参考地は、「鞠ヶ奈路陵墓参考地」 とも呼ばれています。
安徳天皇が都をしのび、従臣たちと蹴鞠をして遊んだ場所という伝説が由来です。

111段もある立派な石段の先に安徳天皇陵墓参考地はあります。
陵墓を御影石の二重の玉垣が取り囲み、場違いなほどに厳かな雰囲気が漂います。

安徳天皇は、平清盛を頂点に平氏が政治の実権を掌握していた平安時代末期に即位した天皇です。
高倉天皇の第1皇子で、母は平清盛の娘の徳子(建礼門院)です。
高倉天皇から譲位され、たった3歳で即位しました。
けれど、3年後には、 源義仲(木曽義仲)の入京により、平家一門とともに都落ちしました。
世に云う源平合戦により、平家側だった安徳天皇は西国を転転とします。
元暦2年/寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平家は滅亡。
三種の神器とともに、安徳天皇は入水、崩御しました。
数え年8歳(満6歳4か月、6年124日)は、歴代最年少です。
宮内庁管理の安徳天皇の天皇陵は、壇ノ浦を望む山口県下関市阿弥陀寺町にある赤間神宮内の阿彌陀寺陵です。

四国・九州各地には、安徳天皇が入水せず、平家の残党共に落ち延びていた平家の落人伝説がいくつも存在します。
安徳天皇が生きていた、そんな「if」に基づく伝説です。
もうひとつの壇ノ浦、屋島壇ノ浦での敗戦後、安徳天皇一行が向かったのは、海上ではなく、四国山地でした。
そのルートは、東祖谷山→奥物部西熊山→御在所山→森→平家平→大森川→椿山→別枝。
源氏の執拗な平家残党狩りの手を逃れ落ち続け、やっとたどり着いた最期の安息の地が横倉山でした。
崩御は、21歳とも23歳とも伝えられています。

御陵参考地の西隣の平坦地は、安徳天皇が乗馬の練習をしたと伝わる「御馬場跡」。
天皇の飲用水として用いたといわれている湧き水「安徳水」。
安徳天皇を祀る「横倉宮」。
平家の守護神・熊野権現を祀る「杉原神社」。
横倉山山中には、安徳天皇にまつわる史跡が点在しています。

また、横倉山は、修験道の霊場としても、とても古い歴史を持っています。
保安3年(1122)の年代記銘がある最古の銅製の経筒が発見されています。
これにより、山岳信仰は最低でも800年以上、平安時代後期にはあったことが立証されました。
現在でも、「住吉の断崖」にある住吉神社には鎖場があります。
祠の裏の崖は捨身行の行場と伝えられています。
麓の横倉神社、山腹の杉原神社、山頂の横倉宮も、礼拝場の名残です。

また、横倉山を通る「四国のみち」は、「横倉修験のみち」というコース名です。
麓からスタートし、山上は御陵やカブト嶽を周回する、全長は10.8kmです。
遊歩道として整備されています。
一部、岩場や崖があるので、足下に気をつけましょう。

標高600m付近にある駐車場まで舗装路が通っています。
国道33号線から登山口まで、アクセスは容易です。
南麓にある桐見ダム付近からも林道があります。

標高450m付近には、越知盆地を見晴らせる「織田公園」があります。
越知町の織田盛雄氏が地元の観光振興を願い、昭和52年、建設しました。
園内には、ボタンザクラやツツジ、アジサイ、コスモスなど、季節ごとに色とりどりな花花が咲きます。
展望台からは、仁淀川の蛇行や越知の町が一望です。
第3駐車場
3.8km 83.5km
横倉山 4km
横倉長者線入口
300m
2.6km 32.7km
3.7km
白石横倉線入口

高知駅

JR土讃線
須崎行き

佐川駅

佐川駅

黒岩観光バス
越知行き

宮ノ前公園

JR四国(鉄道) →黒岩観光バス
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