へ行こう!
杉原神社~横倉宮 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬ | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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①第3駐車場の第3登山口(仮)からお山歩スタート。
標高は610mくらいです。
最初は丸太の階段です。
足慣らしも兼ね、一段一段、ゆっくり、登ります。
②途中でジグザグと曲がりながら、高度を稼いで行きます。
杉原神社の手前で道が別れてて、案内もないし、ちょっと不安に。
よく踏まれている左側の道を進みました。
久しぶりの登山に細胞が慣れ始めた頃ー
③杉原神社の境内に到着しました。
思いのほか、広い境内。
樹齢を想像するのも野暮なほどのスギの巨木が何本もそびえています。
注連縄が巻かれた二本は町の天然記念物に指定されています。
本殿側、北側の大杉に立つ杭。
「北株
目通幹囲 7.29メートル
樹高 47.5メートル
推定樹齢 600年」
南側の大杉に立つ杭。
「南株
目通幹囲 5.92メートル
樹高 51メートル
推定樹齢 500年」
「SONIA 27 杉原神社」と書かれた看板。
「SONIA」ってなに?
って感じですが、長くなるので、詳細は最下部の「ひとりごと」で。
こちらは、境内南側に立つ鳥居。
その奥の石段はー
第2駐車場から続く表参道です。
「横倉宮 2km→」
「表参道入口 1.2km→」
参拝者が多かった名残か、石段の中央付近が少し凹んで見えます。
入山のご挨拶とお山歩の無事をお祈り。
拝殿裏の本殿。
屋根の下、木組みが素晴らしい。
梁の先が龍になってる!
杉原神社の祭神は、
現在の御社殿・本殿は、明治時代に建て替えられたものです。
本殿は明治8年に、拝殿は9年に建てられました。
杉原神社御社殿の右側にある石段を登るとー
平家の宮 |
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横倉山中および周辺には安徳天皇護衛の従臣80余名の墓祠があり横倉宮の摂社末社として祭祀が行われてきたが戦後腐朽し不明になるものもあったので平家会や有志が相談し御霊を一つの宮に招霊することとし昭和57年(1982年)10月この社を新設したものである。 |
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合掌。
では、横倉宮方面へ、移動再開。
「横倉宮 2km→」
横倉山案内図 |
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天 馬鹿試し |
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安徳天皇御陵墓 |
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空池の自然庭園 |
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住吉の断崖 数百米の断崖の上には安徳天皇に供奉した中納言兼政祀る住吉神社が鎮座、鎖と岩場のスリルに富み晴天には遠く高知市方面まで一望される |
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石鎚神社 遠く高知市、愛媛県石鎚連峰他越知町内全域を望む絶景 |
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杉原神社境内から100mほど進むとー
④右側にちょっとした広場が出現しました。
東屋とか山小屋がいきなりあるのでした。
東屋。
こちらが、なんか立派な山小屋。
鍵はかかっていなかったので、中を覗いてみました。
床にゴミひとつ落ちてない!
木製の二段ベッドが何セットもあります。
反対側の隅っこには流し台がありました。
この山小屋は誰でも自由に使うことが出来るそうです。
でも、水道なし、電気なし、当然、冷暖房なし。
予約とか使用許可とかも必要ないそうです。
寝袋持参でお泊まりしましょう。
だけど、夜は真っ暗。
明るいうちの到着をお勧めします。
駐車場に荷物を取りに行く、なんてこと、怖くてできません、僕。
一応、東屋の横に水場。
でも、飲めない生水です。
牧野富太郎博士の自筆歌碑。
「森々と杉の木立の限りなく
神代ながらの横倉の山」
この広場の入口には「安徳水」の解説板が立ってます。
全国名水百選安徳水 |
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昭和60年3月28日 |
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安徳水は、文治元年(1185年)屋島の合戦で敗れた平家一門が、安徳帝を擁しくこの地に落ち延びられ、平知盛外80余名が天の高市(武家屋敷跡)に25軒の住を構え、都とした折りに、この泉水を供御水とされたとされている。 |
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山小屋の脇に下る小路があります。
150m弱下るとー
⑤木立の中の小さな谷に水の気配。
湧くと云うよりしみ出しています。
苔むした岩に囲まれた場所。
後ろにSONIA看板が立ってます。
「28 安徳水」。
「名水百選 安徳水」と刻まれてます。
木に抱かれた岩の下からー
正直、もうちょっと湧いてると思ってた…。
濁さないように、そっと味見…。
普通…。
もっとごくごく飲めたら、名水を感じられたかも。
虫がいないシーズンなら良さげなテーブルセット。
では、来た道を山小屋広場へ戻ります。
⑤さらに西を目指します。
⑥急坂とかないので、楽ちんです。
小さな谷を渡る橋。
⑦道の左右にいろいろある場所です。
まずは、右方にある「平安社」へ。
「平安社 門脇平中納言敦盛 50m」の杭の後ろー
鳥居が入口。
鳥居をくぐるとー
斜面を張られたロープ伝いに、ちょこっと登ります。
こんもりとした丘状地形になにか見えてきた。
⑧おお、これが平安社か。
合掌。
ちょっと離れるとこんな感じ。
⑧遊歩道に戻ってー
今度は遊歩道の左側へ。
「←安徳天皇行在所跡」へ。
なんか、けもの道みたい、はっきりしない道。
⑨木立の中のちょこっと平らな場所。
ここが「安徳天皇行在所跡」。
正直、このポールがないと分からない。
さて、「行在所」、なんて読んでますか?
まさか、「ぎょうざいしょ」なんて、読んでませんよね。
正解は、
「あんざいしょ」
嘘だと思ったら、「あんざいしょ」を漢字変換してみて。
変換候補に「行在所」って出るから。
行在所は、天皇が旅先で宿泊する、一時的な滞在場所のことです。
安徳天皇は転転とここまで逃亡してきました。
でも、まだ帰京をあきらめていなかった、と云うことが、この名前で分かります。
横倉山でここが一番、自然に任せてるかも。
南北は30mほど、東西は40mくらいの広さです。
ここでも安徳帝は蹴鞠をしていたのかな。
ちなみに、このときは見つけられなかったですが。
南東の端っこの方に「供御水(くごすい)」が湧いてるそう。
安徳水の水源のようです。
⑧遊歩道に戻り歩き始めたのですが、また左側に白い看板発見。
⑩町の天然記念物「横倉山のカツラ」。
樹高はどれくらいだろうか。
後日、検索
目通り幹回りは66m、樹高は30.0m、樹齢は250年。
肌はコブコブしてます。
で、巨木は1本だけだと思っていたらー
すぐ隣に、またカツラの巨木。
こちらは二股に分かれてます。
目通幹回りは6.80m、樹高25.0m、推定樹齢は400年。
こちらも町の天然記念物。
横倉山に巨木がこんなに残っているのも、安徳帝のおかげでしょうか。
⑧と云うわけで、遊歩道にまたまたまた戻って、先へ。
歩き出したと思ったら…な、くらいの距離でー
⑪左に道が別れる分岐・合流点。
「左 田口社前を経て南遊歩道に至る」
四国の道の案内。
「カブト嶽→」がその南遊歩道方面。
で、すぐそばにある、こちらが田口社。
合掌。
南遊歩道へ向かう道。
この分岐した道を行くと「青ぬたの十字路」に出ます。
では、「横倉宮→」方面へ。
あ、また、なんか見えてきた。
⑫「横倉宮」の鳥居ですね。
鉄板を巻いてるような感じの鳥居。
正面の階段を登れば、横倉宮に着けます。
右に、「休憩所→」が指す道が分岐してます。
横倉宮を通らず、陵墓参考地へ迂回するルートです。
中ボス直前の難路みたいな階段。
距離は100mもなかったと思うけど、標高差は30mくらいあったかな。
⑬やっとこさ、「横倉宮」に到着です。
横倉宮の紹介の前に。
ここは、南遊歩道との合流分岐点でもあります。
南遊歩道を行けば、三角点、カブト嶽、そして織田公園に。
では、横倉宮。
杉原神社より一回り小さい印象。
中嶽とも称されるピークに横倉宮はあります。
このピークは、三角点よりも高いです。
なんてったって、お社もある。
横倉山の山頂は、本来、このピークこそがふさわしいと思います。
敷き詰めてあるのは、ここいらの石灰岩かな。
合掌。
横倉宮 |
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祭神は安徳天皇、本殿は春日造り、拝殿は流造りです |
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歴代領主が崇拝し、しばしば社殿の修改築をした。
現在の建物は明治30年(1897)頃の改築で、以前は横倉権現といったが、明治4年に御嶽神社と改め、昭和24年(1949)12月23日、天皇崩御750年祭のときに横倉宮と改められた。 |
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安徳天皇御陵墓 |
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天 馬鹿試し |
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住吉の断崖 |
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横倉ノ木 |
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屋島~横倉山、安徳帝一行の逃避行コース。
御社殿の右側面へ。
本殿は拝殿より高い位置にありました。
石灰岩の岩塊の上にさらに石も積んで建ってます。
横から見ると屋根の前が後ろより長いのが、流造りの特徴。
宮の横には「ヨコグラノキ」。
でも、正直、どの木がヨコグラノキか、分かりませんでした。
(^_^;)
牧野博士の発見・命名によるヨコグラノキ |
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1884(明治17)年、土佐が生んだ世界的な植物学者・牧野富太郎が発見し、この木(横倉宮右隣)をもとに1898(明治31)年に新種「ヨコグラノキ」と命名し学会に発表した基準標本の貴重な木である。 |
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横倉宮の左側奥には、「馬鹿試し」があります。
紹介は後ほど。
ひとりごと | ||
この区間で高低差を感じたのは、安徳水への坂道と横倉宮の階段くらい。 まず最初の杉原神社は、スギの巨木に圧倒されます。 境内は、山の中とは思えないほど、キレイ。 さて、「SONIA」看板の SONIA についてです。 あと、杉原神社を明治時代に改修した宮大工の話もしておきます。 杉原神社の先にある山小屋、キレイです。 安徳水は、もうちょっと湧き出てるかと思った。 あちこち寄り道しながら、横倉宮に到着。 横倉宮を建てたとする平知盛について。 さて、壇ノ浦の戦いのこと。 九州を先に抑えたのは、戦略的勝利でもあります。 まぁ、平治の乱の後、平清盛が、まだ子供だった頼朝らの首をはねなかったのが最大のミスなのですが。 横倉宮の左奥に「馬鹿試し」があります。 |
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