横倉山
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杉原神社~横倉宮
距離 約450m
標高差 約90m
距離 約670m
標高差 約90m
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所
水場

第3駐車場の第3登山口(仮)からお山歩スタート。
標高は610mくらいです。


最初は丸太の階段です。
足慣らしも兼ね、一段一段、ゆっくり、登ります。



途中でジグザグと曲がりながら、高度を稼いで行きます。


杉原神社の手前で道が別れてて、案内もないし、ちょっと不安に。
よく踏まれている左側の道を進みました。

久しぶりの登山に細胞が慣れ始めた頃ー



杉原神社の境内に到着しました。


思いのほか、広い境内。
樹齢を想像するのも野暮なほどのスギの巨木が何本もそびえています。
注連縄が巻かれた二本は町の天然記念物に指定されています。


本殿側、北側の大杉に立つ杭。
「北株
目通幹囲 7.29メートル
樹高 47.5メートル
推定樹齢 600年」


南側の大杉に立つ杭。
「南株
目通幹囲 5.92メートル
樹高 51メートル
推定樹齢 500年」


「SONIA 27 杉原神社」と書かれた看板。

「SONIA」ってなに?
って感じですが、長くなるので、詳細は最下部の「ひとりごと」で。


こちらは、境内南側に立つ鳥居。
その奥の石段はー


第2駐車場から続く表参道です。


「横倉宮 2km→」
「表参道入口 1.2km→」

キレイな境内に鎮座する御社殿。

社殿の右奥には別のお社「平家の宮」がちら見。


参拝者が多かった名残か、石段の中央付近が少し凹んで見えます。


狛犬コレクション。
丸みを帯びた造形が特徴です。


入山のご挨拶とお山歩の無事をお祈り。


拝殿裏の本殿。
屋根の下、木組みが素晴らしい。
梁の先が龍になってる!

杉原神社の祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)伊邪那美命(いざなみのみこと)

現在の御社殿・本殿は、明治時代に建て替えられたものです。
本殿は明治8年に、拝殿は9年に建てられました。


杉原神社御社殿の右側にある石段を登るとー

平家の宮

横倉山中および周辺には安徳天皇護衛の従臣80余名の墓祠があり横倉宮の摂社末社として祭祀が行われてきたが戦後腐朽し不明になるものもあったので平家会や有志が相談し御霊を一つの宮に招霊することとし昭和57年(1982年)10月この社を新設したものである。


合掌。


では、横倉宮方面へ、移動再開。

「横倉宮 2km→」

  

横倉山案内図

天󁸴 馬鹿試し
横倉山頂上の中嶽にあり安徳天皇を祀る横倉宮が鎮座すその背後の石灰岩は千仞の断崖絶壁をなし戦標目もくらむ一大󁸴所である
普通人では容易にその突端には近づけない
敢て危険を冒して先端に足を運ぶ者は馬鹿者とされ馬鹿か否かを試す意味から馬鹿試しと呼ぶようになった
山男達のロッククライミング練習場として200余米の断崖

安徳天皇御陵墓
横倉宮の西北平坦地にあり 天皇潜行中に従臣らと蹴鞠遊びをされし処と伝えられ(よって鞠ヶ奈呂陵墓という)正治2年宝算23才で崩じ給いこの地に奉葬、様式は歴代皇陵と同一で県下唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している
明治16年御陵伝説地指定、昭和3年参考地指定となる

空池の自然庭園
奇岩怪石の石灰岩が群落し恰も天然の造園を形造っている

住吉の断崖
数百米の断崖の上には安徳天皇に供奉した中納言兼政祀る住吉神社が鎮座、鎖と岩場のスリルに富み晴天には遠く高知市方面まで一望される
石鎚神社
遠く高知市、愛媛県石鎚連峰他越知町内全域を望む絶景

杉原神社境内から100mほど進むとー



右側にちょっとした広場が出現しました。
東屋とか山小屋がいきなりあるのでした。


東屋。


こちらが、なんか立派な山小屋。
鍵はかかっていなかったので、中を覗いてみました。


床にゴミひとつ落ちてない!


木製の二段ベッドが何セットもあります。


反対側の隅っこには流し台がありました。

この山小屋は誰でも自由に使うことが出来るそうです。
でも、水道なし、電気なし、当然、冷暖房なし。
予約とか使用許可とかも必要ないそうです。
寝袋持参でお泊まりしましょう。
だけど、夜は真っ暗。
明るいうちの到着をお勧めします。
駐車場に荷物を取りに行く、なんてこと、怖くてできません、僕。


一応、東屋の横に水場。
でも、飲めない生水です。


牧野富太郎博士の自筆歌碑。
「森々と杉の木立の限りなく
神代ながらの横倉の山」


この広場の入口には「安徳水」の解説板が立ってます。

全国名水百選安徳水

昭和60年3月28日
環境庁選定

安徳水は、文治元年(1185年)屋島の合戦で敗れた平家一門が、安徳帝を擁しくこの地に落ち延びられ、平知盛外80余名が天の高市(武家屋敷跡)に25軒の住を構え、都とした折りに、この泉水を供御水とされたとされている。
また、これより200年前、横倉山が日本国霊峰四八ヵ山として有名になった頃、修験者の清め水として使用されたとも伝えられている。


山小屋の脇に下る小路があります。

150m弱下るとー



木立の中の小さな谷に水の気配。
湧くと云うよりしみ出しています。


苔むした岩に囲まれた場所。

後ろにSONIA看板が立ってます。
「28 安徳水」。


「名水百選 安徳水」と刻まれてます。


木に抱かれた岩の下からー


正直、もうちょっと湧いてると思ってた…。

濁さないように、そっと味見…。

普通…。

もっとごくごく飲めたら、名水を感じられたかも。


虫がいないシーズンなら良さげなテーブルセット。

では、来た道を山小屋広場へ戻ります。


さらに西を目指します。



急坂とかないので、楽ちんです。


小さな谷を渡る橋。



道の左右にいろいろある場所です。

  

左に「安徳帝行在所跡」。
右に「平安社」がある「アセビの森」。


まずは、右方にある「平安社」へ。

「平安社 門脇平中納言敦盛 50m」の杭の後ろー


鳥居が入口。


鳥居をくぐるとー


斜面を張られたロープ伝いに、ちょこっと登ります。


こんもりとした丘状地形になにか見えてきた。



おお、これが平安社か。


合掌。


ちょっと離れるとこんな感じ。


遊歩道に戻ってー


今度は遊歩道の左側へ。
「←安徳天皇行在所跡」へ。


なんか、けもの道みたい、はっきりしない道。



木立の中のちょこっと平らな場所。
ここが「安徳天皇行在所跡」。


正直、このポールがないと分からない。

さて、「行在所」、なんて読んでますか?

まさか、「ぎょうざいしょ」なんて、読んでませんよね。

正解は、

「あんざいしょ」

嘘だと思ったら、「あんざいしょ」を漢字変換してみて。
変換候補に「行在所」って出るから。

行在所は、天皇が旅先で宿泊する、一時的な滞在場所のことです。

安徳天皇は転転とここまで逃亡してきました。
でも、まだ帰京をあきらめていなかった、と云うことが、この名前で分かります。

横倉山でここが一番、自然に任せてるかも。

南北は30mほど、東西は40mくらいの広さです。

ここでも安徳帝は蹴鞠をしていたのかな。

ちなみに、このときは見つけられなかったですが。
南東の端っこの方に「供御水(くごすい)」が湧いてるそう。
安徳水の水源のようです。


遊歩道に戻り歩き始めたのですが、また左側に白い看板発見。



町の天然記念物「横倉山のカツラ」。


樹高はどれくらいだろうか。

後日、検索
目通り幹回りは66m、樹高は30.0m、樹齢は250年。


肌はコブコブしてます。

で、巨木は1本だけだと思っていたらー


すぐ隣に、またカツラの巨木。
こちらは二股に分かれてます。


目通幹回りは6.80m、樹高25.0m、推定樹齢は400年。


こちらも町の天然記念物。

横倉山に巨木がこんなに残っているのも、安徳帝のおかげでしょうか。


と云うわけで、遊歩道にまたまたまた戻って、先へ。

歩き出したと思ったら…な、くらいの距離でー



左に道が別れる分岐・合流点。


「左 田口社前を経て南遊歩道に至る」


四国の道の案内。
「カブト嶽→」がその南遊歩道方面。


で、すぐそばにある、こちらが田口社。


合掌。


南遊歩道へ向かう道。
この分岐した道を行くと「青ぬたの十字路」に出ます。


では、「横倉宮→」方面へ。


あ、また、なんか見えてきた。




「横倉宮」の鳥居ですね。
鉄板を巻いてるような感じの鳥居。

正面の階段を登れば、横倉宮に着けます。

右に、「休憩所→」が指す道が分岐してます。
横倉宮を通らず、陵墓参考地へ迂回するルートです。


中ボス直前の難路みたいな階段。
距離は100mもなかったと思うけど、標高差は30mくらいあったかな。



やっとこさ、「横倉宮」に到着です。


横倉宮の紹介の前に。
ここは、南遊歩道との合流分岐点でもあります。


南遊歩道を行けば、三角点、カブト嶽、そして織田公園に。


では、横倉宮。

杉原神社より一回り小さい印象。

中嶽とも称されるピークに横倉宮はあります。
このピークは、三角点よりも高いです。
なんてったって、お社もある。
横倉山の山頂は、本来、このピークこそがふさわしいと思います。


敷き詰めてあるのは、ここいらの石灰岩かな。


合掌。

  

横倉宮

祭神は安徳天皇、本殿は春日造り、拝殿は流造りです
由緒は正治2年(1200)8月8日、安徳天皇は23才で亡くなられ、鞠ヶ奈呂に葬られた。
同年9月8日、平知盛が玉室大神宮とあがめて横倉山頂に神殿を建てて祭る。

歴代領主が崇拝し、しばしば社殿の修改築をした。

現在の建物は明治30年(1897)頃の改築で、以前は横倉権現といったが、明治4年に御嶽神社と改め、昭和24年(1949)12月23日、天皇崩御750年祭のときに横倉宮と改められた。

  

安徳天皇御陵墓
横倉宮の西北にあたる平坦地にあり、(鞠ヶ奈呂陵墓とも云う)天皇潜幸中に従臣らと蹴鞠遊びをされし処と伝えられ、正治2年宝算23才で崩じ給いこの地に奉葬。
県下唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している。
明治16年御陵伝説地に指定、昭和3年参考地指定となる。

天󁸴 馬鹿試し
横倉山の頂上中嶽にあり
安徳天皇を祀る横倉宮が鎮座す、その背後に露頭した石灰岩塊は千仞の断崖絶壁をなし戦標目もくらむ一大󁸴所である。
敢て危険を冒して先端に足を運ぶ者は馬鹿者の類とされ馬鹿か否かを試す意味から馬鹿試しと呼ぶようになった。
山男たちのロッククライミング練習場として200余米の断崖 。

住吉の断崖
数百米の断崖の頂上には安徳天皇に供奉したという花山院中納言兼政を祀る住吉神社が鎮座、鎖をたぐるスリルに富み、晴天には遠く高知市方面まで一望される。

横倉ノ木
落葉の小喬木で初夏に緑色の小花咲き、果実は楕円形で、赤色をおびた橙色となる。
明治24年、牧野富太郎博士が横倉宮の側で発見し記念のため同山名を名づけたもので、本州西部、四国、九州に稀に産す。


屋島~横倉山、安徳帝一行の逃避行コース。


御社殿の右側面へ。

本殿は拝殿より高い位置にありました。
石灰岩の岩塊の上にさらに石も積んで建ってます。


横から見ると屋根の前が後ろより長いのが、流造りの特徴。


宮の横には「ヨコグラノキ」。
でも、正直、どの木がヨコグラノキか、分かりませんでした。
(^_^;)

牧野博士の発見・命名によるヨコグラノキ

1884(明治17)年、土佐が生んだ世界的な植物学者・牧野富太郎が発見し、この木(横倉宮右隣)をもとに1898(明治31)年に新種「ヨコグラノキ」と命名し学会に発表した基準標本の貴重な木である。
樹齢は160年ほど(2009年現在)と思われる。
クロウメモドキ科の落葉高木。
花は黄色で7月に咲き、8月に暗赤色の実が熟す。
葉が片側に2枚ずつ並んで付き、樹皮の網目状の模様が特徴。


横倉宮の左側奥には、「馬鹿試し」があります。

紹介は後ほど。

ひとりごと

この区間で高低差を感じたのは、安徳水への坂道と横倉宮の階段くらい。
あとは、そんなにしんどくなかったです。
横倉山は、第3駐車場まで来てしまえば、登山と云うより、ハイキングです。
そして、見どころが点在して飽きないです。

まず最初の杉原神社は、スギの巨木に圧倒されます。
大抵の神社にはご神木と呼ばれ、大切にされてる木があります。
このスギもとても立派です。
境内にあるから伐採されなかったのも、大きくなった要因でしょう。
でも、一番は、ここが安徳天皇ゆかりの地だったからではないかな。
もし、ここいらに巨木を切り倒して奉納するような行事があったら、真っ先に狙われそう。
長野の諏訪神社を舞台に開催される御柱祭りみたいな、あんな感じのがあったら…。
あんまり高いと、雷も落ちると思うけど、大丈夫だったのかな。
簡単にたどり着ける場所にある巨木は、ホント、有り難い存在です。
樹肌にそっと触るだけで、なにかを得られるような錯覚をしてしまう自分がいます。

境内は、山の中とは思えないほど、キレイ。
スギの枝とか、散乱しててもおかしくないのに。
思えば、駐車場であったおじさん。
あのおじさんが掃除とかされてたのかも。
軽トラで来てたし。
服装も、登山やハイキングに来たって感じではなかったし。
そうでなくても、誰かが定期的に清掃されてるのは確かです。

さて、「SONIA」看板の SONIA についてです。
調べてみると、1964年に発足した「高吾北広域町村事務組合」の愛称であることが判明しました。
佐川町のS、越知町のO、仁淀村のN、池川町のI、吾川村のA。
仁淀川流域の5町村の頭文字で、「SONIA」でした。
消防、し尿処理、ごみ処理、火葬場、特別養護老人ホームなどの施設も運営したり、いろいろ活動してるみたい。
地域振興活動の中で、観光地などにSONIA看板を設置したようです。
ちなみに、市町村合併で、池川と吾川は仁淀川町になったので、現在は、正確には「SON」の三文字だけに。
5町村で合併する話もあったみたいですが、越知町が離脱して立ち消えになったようです。

あと、杉原神社を明治時代に改修した宮大工の話もしておきます。
上でも書いたように現在の御社殿・本殿は、明治時代に建て替えられたものです。
それを手がけたのは、山口県の周防大島にいた凄腕の宮大工集団です。
当時、彼らは「長州大工」と呼ばれ、一目置かれた存在でした。
長州大工らは、明治・大正にかけ、愛媛や高知で、寺社から一般住宅まで数多くの建物を手がけていました。
なかでも特に有名だった門井家、その3代目の門井宗吉が、杉原神社を手がけました。
本殿の龍とか干支の見事な彫刻も宗吉の手による傑作のひとつです。
ちなみに、麓の横倉神社の改修に携わった3人の長州大工の1人も、宗吉です。
大洲の十夜ヶ橋の大師堂も宗吉の仕事です。
十夜ヶ橋の大師堂は、杉原神社の本殿みたいに、彫刻が、凄い!
龍に貘、伝説の生き物から干支、鶴亀、はたまた中国の伝説、日本の神話に至るまで。
様々な題材の彫刻が生き生きと、そこかしこにさりげなく施されています。
弟の友祐も宮大工でしたが、彫刻の腕は兄以上で、のちに彫刻師となりました。
今治の南光坊の大師堂にある見事な彫刻は、友祐の仕事です。
彼らの更に凄いのが、なんたって、仕事が早いこと。
現代のように電動工具なんてない、みんな手彫りで、ささっと仕上げてしまう。
そして、若い。
宗吉の生まれは、安政6年(1859)。
杉原神社の本殿が建ったのは、明治8年(1875)。
え? 16歳???
十夜ヶ橋の大師堂は、明治19年(1886)だから、27歳。
その歳で、あの彫刻を彫ったのかと思うと、なんか、凄い。

杉原神社の先にある山小屋、キレイです。
利用する人が少ないのもキレイを保ってる理由でもあると思うけど。
それにしても、痛んでる感じがしないのだ。
駐車場からもう少し近かったら、ここいらを散策するときのベースにできるのに。
あれこれ想像して怖がりな僕には、ちょっと、無理ぽ。

安徳水は、もうちょっと湧き出てるかと思った。
名水百選に選ばれたほどだもの。
コップで簡単にくめるくらい、じょぼじょぼしてるのかと思ってた。
訪問した5月は雨が少なかったし、前の冬は雪も少なかった。
ここいらは雪は積もらないと思うけど、雪が少なければ、雨も少なかったということだ。
濁さないように、ゴミが入らないように、そっと手ですくって飲んでみました。
雑味はなかったけど、名水と云われるほどの美味しさは感じることができませんでした。
西条の打ち抜きくらい、ぼっこぼこ湧いてて、ごくごく飲めたら、きっと美味しかったろうなぁ。
でも、こんな場所のお水、誰が名水百選に推したんだろう?

あちこち寄り道しながら、横倉宮に到着。
ここが中嶽と呼ばれる山頂です。
上でも書きましたが、あとで訪ねる三角点よりもちょこっと高いです。
あちこちの解説看板には、横倉宮は横倉山頂にある、と記述してます。
歴史的に見ても横倉宮がお祀りしてあるこのピークこそが、横倉山山頂と呼んだ方がいいのかも知れません。
当サイトで何度も語ってきましたが、三角点はただの測量ポイントに過ぎませんし。
一方で、横倉の参道は三嶽古道とも呼ばれています。
三嶽とは、「かぶと嶽」、「日置の嶽」、そして「中嶽」。
横倉山は、複数のピークの山塊の総称である、とするのが正しいのかも知れません。
例えば、天狗岳、弥山、南先鋒などをまとめて石鎚山と呼んでいるのと同じように。

横倉宮を建てたとする平知盛について。
史実では、壇ノ浦で入水し、自害しています。
父は、あの平清盛。
妹は、壇ノ浦で自害させてもらえなかった平徳子=建礼門院。
徳子は、安徳帝の母親です。
なので、知盛は安徳帝のおじさんです。
知盛は、壇ノ浦で自害する際、船のイカリを担いで入水したとの逸話もあります。
死後、身体が浮上すれば、きっとさらし者にされるだろうと思っての行動でした。
もしも、壇ノ浦で亡くなったのが影武者だったとしたら…。
イカリを担いでの入水は、別の意味・意図があったように感じてしまいます。
そのことは、のちほど。

さて、壇ノ浦の戦いのこと。
屋島の敗戦以降も平氏はあきらめてはいませんでした。
そもそも、西国、京から西は、平氏びいきの地域でした。
最悪、九州まで逃げ延びることができれば、勢力を盛り返すことも不可能ではありませんでした。
例えば、鎌倉の後、室町幕府の成立時に起きた建武の乱の足利尊氏。
尊氏は楠木正成・新田義貞の攻勢に遭って敗退し、九州へ逃れます。
その途上、足利軍には大友氏など九州勢の味方が加わります。
尊氏は九州各地の敵方を破り、西国の武士を急速に傘下に集めてゆきます。
そして、その勢いのまま、京へ進軍し、楠木正成・新田義貞らへのリベンジを果たしたのでした。
平家軍は、神戸とか屋島とか、ちまちま停滞しては敗戦。
その度、貴重な兵力を失っていきました。
さっさと九州まで退いていたら、歴史は変わっていたかも知れません。
でも、それを刺せなかったのは頼朝の異母弟・範頼です。
九州に先回りし、平氏の基盤の地であった長門・豊前・筑前を攻略していました。
平氏はついに進退窮まったのです。

九州を先に抑えたのは、戦略的勝利でもあります。
でも、その作戦の発露は源頼朝自らの経験が活かされたことかも知れません。
戦の規模は違いますが、頼朝が伊豆で挙兵してすぐ、彼は一度大敗しています。
数日の間、山中をさまよい、船で海に脱出した頼朝は、対岸の安房の豪族を味方に付け、反撃に出ました。
関東勢を次々に吸収し、挙兵時より大軍勢となってリベンジを果たしたのです。
追討軍が安房や下総に先回りしていたら、頼朝の未来はいとも簡単に断たれていました。
平氏に対し、九州という再起の地を与えなかった戦い方。
その一面には、頼朝のこんな経験が生かされたのかも知れません。

まぁ、平治の乱の後、平清盛が、まだ子供だった頼朝らの首をはねなかったのが最大のミスなのですが。
一方、将軍となった頼朝は、信用できない者たちを次々に粛正していきます。
怖い、怖い。

横倉宮の左奥に「馬鹿試し」があります。
でも、到着した時は見つけられず、スルーしてしまいました。
御陵墓とか住吉とか訪ね、ここに戻ってきたときに、やっと行くことができました。
なので、すみません。
時系列に沿う形で、あとのページで載せることにしました。

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