横倉山
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御陵参考地~馬鹿試し
距離 約250m
標高差
(累積)
約50m
距離 約600m
標高差
(最高)
約90m
距離 約150m
標高差 約50m
徒歩
下記写真の場所
見晴らしあり

横倉宮からさらに西へ。
「畝傍山眺望所・空池・住吉→」の方へ。


中嶽ピークから、道は下ります。
横倉宮に向かって登った石段の高さくらい、下ります。



横倉宮入口の鳥居前で分岐した迂回路と合流します。


「右 安徳天皇御陵参考地」
「左 岩屋神社・平家穴に至る」


休憩所もあります。

四国の道の案内図があるので、チェックしておきましょう。

  


次に目指すのは、「安徳天皇御陵参考地」。
そして、眺望所、空池、住吉神社…。


「安徳天皇御陵参考地→」の方へ。



すぐにSONIA看板と石段に出会います。
「30 安徳天皇陵墓参考地」


立派な石段が山上に向かって続いています。
この先にあるものが「ただ者ではない」雰囲気を醸し出しています。

えっちらおっちら。
石段を踏みしめ踏みしめ登ると、途中でくの字に曲がりー


111段ある石段の先に、見えてきました。



想像以上に圧倒的な存在感でした。

「安徳天皇陵墓参考地」です。

  

安徳天皇陵墓参考地

文治元年(1185)の屋島壇ノ浦の戦いで天皇の身代わりを立てた本体を下関壇ノ浦に向かわせ、幼帝安徳天皇を擁した平家一門はひそかに四国に上陸した。
1年数ヶ月の潜幸の後ここ横倉山に辿り着き終焉の地としたが、正治2年(1200)に御歳23歳で崩御しこの地に奉葬される。
天皇が従臣らと蹴鞠をされた所と伝えられ、地元では「鞠ヶ奈呂陵墓参考地」ともいう。
ここ西隣は、天皇が乗馬の練習をされた「御馬場跡」と言われている。
明治16年「御陵伝説地」に、昭和元年「陵墓参考地」に指定。
正式には「越知陵墓参考地」。
県内では唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している。

陵墓は御影石でできた二重の玉垣で囲まれています。

外側の玉垣からのぞき見た、内側の玉垣。

内も外も目立つ雑草がひとつも生えてない。


黒い格子の扉の向こう、広場の中央になにかあるようです。
お社のような構造物はありません。


横に回って見てみました。

切り株とその周囲に白い石があるだけです。
一般的な墓石のようなものはありません。
全体でお墓だから、当然ですが。


柵の中には木々も育っています。


「参考地」や「伝説」の言葉に惑わされてたのは確かだけど。
「こんなもんだろう」なんて想像を越えて立派な陵墓でした。

写真は撮らなかったのですが、「御調馬所」は向かって左の方にあります。
乗馬できたり、蹴鞠ができたり…。
陵墓の左右も比較的平らな、なだらかな丘の上のような地形です。
「鞠ヶ奈呂」という不思議な地名は、この平らな地形が鍵となっています。
地名の意味については長くなるので最下部の「ひとりごと」で解説します。


陵墓の石段入口まで戻りました。


「これより住吉神社 約500米」が倒れてます。



旧仁淀村へ向かう道と分岐合流するY字路。


「←住吉・空池」
「←畝傍山眺望所」
「仁淀村(旧参道)→」

左へ、住吉・眺望所の方へ進みます。


ちょこっと登ります。

眺望所の入口の分岐。


「空池・住吉神社→」
こっちじゃなくー


「←眺望所」
こっちへ、左折します。


ちょっと細い道。


途中にある東屋。

その前にある「畝傍山眺望所→」に従って進むとー



明るい場所に出ました。
「畝傍山眺望所」です。

「畝傍山」と書いて「うねびやま」。

休憩に便利なテーブルセットもあります。

茂みの先はー


東向きに開けていました。
ここはー


ちょっと離れてみると、こんな場所です。
丸太を割ったベンチがあります。

こんなパノラマが拡がっていました。
かなり西に入った場所なので、越知の町は見えません。

すぐ左の尾根は、横倉宮のある中嶽や三角点尾根。


横倉宮裏の「馬鹿試し」の断崖。


正面の山並みの麓に見えたのがー


桐見ダム。


「眺望所から見える風景」

室戸方面って書いてあるけどー


うっすら、見えてるのかな…。


眺望所入口の分岐まで戻りました。

次の目標は「空池→」です。


御陵参考地を過ぎて以降、道幅が狭くなってます。
案内が要所要所にあるので安心だけど。
現在地を確認しつつ、進みましょう。



住吉と空池の分岐です。


「空池→」の方、右へ進みます。


「池」ってくらいだからか、岩も苔むしています。
全身緑色だけど、コケの下は真っ白な石灰岩です。


分岐から比高60mほど登ります。
意外と登ったので、息がアガりそうでした。

ちなみに目指してる「空池」は「からいけ」と読みます。
でも、僕は「そらいけ」って読んでたので、
TOKIOの♪空船を唄いながら歩いてました。


上り坂が一息ついたら、コケゾーン。


せっかく登ってきたけど、ちょこっと下ります。
苔むした石灰岩で、空気までしっとり。

さて、「空池」とは、空っぽの池みたいな地形ってことです。
つまり、凹んだ地形を意味しています。
なので、下り始めた時点で、すでに空池の中にいるのです。



「空池」に到着しました。
正確には、空池の底、かな。

空池

4億年前の日本のサンゴ礁石灰岩がカルスト状になり水たまりのない凹地になっていることから空池という。
(以下は判読不明)


空池の地形図です。
矢印は、地形が凹んでいることを表す地図記号です。
矢印のある円は凹んでいて、その右隣の円は凸んでいます。

これは、カルスト地形的に「ドリーネ」と呼ばれるものです。


上記の写真は四国カルストの大野ヶ原にあるドリーネです。
露頭した石灰岩が雨水で浸食され、窪地になったものです。
横倉山周辺も石灰岩地層なので、ドリーネがあって当然です。
また、空池に水が溜まらないのは、地下に鍾乳洞があるのかも。


空池の一番低いところは、周囲をネットで囲まれていました。
これはシカの食害から貴重な植物を守るためのものです。


訪れたのは新緑の季節を少し過ぎた頃。
シカ避けネットのおかげで、草ぼーぼーでした。


空池は、真夏でも、きっと涼しそう。


さて、次は「住吉神社」へ。


空池の底から南東に向かって登ります。



空池~住吉間にある小ピーク。
実は、今回のルートで、もっとも標高が高かった部分です。
地形図上での数値ですが、870mちょっとです。


小ピークを越え、下ります。


石灰岩の階段を降りー


踏み跡をたどっているとー



住吉の入口もある十字路に出ました。

「右 空池に至る」
「左 大平・上流に至る」


別のポール。

「→右 空池に至る」
「←左 大平分れを経て一本木に至る」

大平や上流は、横倉山南麓の集落名です。
一本木は、三嶽古道上にある地名で、西の山の中の地名です。

っていうか、このときの僕の頭の中は…

「住吉神社は、どっち?」

こと、ここに至り、住吉神社への案内がまったくないのです。
地図見ても、載ってない…。
ネット検索しても、ルートに詳しい記事にヒットしない…。

北へ下る明瞭な道があったので、ひとまず、下ってみました。

すると…

見覚えのあるY字路に降り着きました。

空池直前に通った、住吉と空池の分岐でした。

え? 通り過ぎた?

下ってきた坂道を登り返しました。
見落とした場所がないか、注意しながら。

十字路に復帰。

下ってもダメ、空池に戻るのはありえない。
大平方面に行く道は当然、ダメ。


ならば、残る道はひとつだけ。
東に向かう、けもの道みたいな道だけ。



  

あ、看板があった。

住吉神社

初め黒滝神社と称され、横倉山中の三嶽の一つ日置ノ嶽に在る。
長い鉄の一の鎖を伝って崖を降り、そこから短い更に二の鎖をよじ登り断崖の上に至る。
ここはかつての横倉山修験道の行場(鎖禅定)の一つであり、その裏の断崖は捨身行の行場であったと考えられる。
絶壁上に安徳天皇の従臣・花山院中納言兼政を祀る社祠もある。


道は断崖で行き止まりました。

住吉神社の祠はどこだろう、と、キョロキョロ。
足下を見ると…

鎖がある…。

鎖は崖の下に伸びていました。
先の看板に書いてあった一の鎖でした。
目で鎖をたどると、10mほど下った岩棚まで降りられるようです。
その岩棚を挟んで、また崖が屹立していました。
ゆっくりと顔を上げると、今度は、十数mほど向かいに岩峰の先端があるのが分かりました。


木立の先に見えた、岩峰・日置ノ嶽の先端。


あの小さな祠が住吉神社か。

この向かい合った崖は、真横から見るとV字型になっています。
一の鎖で下りー


二の鎖で、この崖を登ります。

でも、V字の底、一の鎖で降りた岩棚部分も狭いんです…。
右も左も崖でした (T_T)

高所恐怖症なんだけどなぁ…。

でも、行かないとダメだよね。
迂回路は…、なさそうね。

万が一、落ちても、岩棚で止まる…よね。


崖の下を見ないようにして、一の鎖を下ってみました。


降り立った岩棚から見上げた、一の鎖。


祠へと続く、二の鎖…。

いや、ロープでした (-_-;) おいおい

ロープを握ってみると、落ちそうにないくらいにしっかりした感触。

「三点支持」=手か足、動かすのはひとつだけ、を守って登りました。
あと、ロープは軽く持つだけ、全体重をかけるようなことはしません。
身体はなるべく崖から離して、視界を確保。

ロープは祠のひとつ下の岩が終点でした。
祠を真正面で見たければ、もう2、3m登る必要がありました。


崖のあと2、3mは地獄だわ。 

でも、がんばって登りました。
ここが「日置の嶽」のピーク。


住吉神社の祠です。

合掌。
無事に戻れますように…。


祠の左越しに見えた越知の町並み。


祠の右側越しの景色。


祠の後ろから見えるパノラマ。


桐見ダムのダム湖もチラ見できました。

帰る前に、住吉神社に、鎖場を安全に登り下りできますようにお願い。
ロープ下降で岩棚、鎖を登って看板の所へ。
なんとか無事に遊歩道まで戻れました。

で、さっき、間違って下った坂道を、もう一度、下りました。


坂の途中で見かけたテンナンショウ。

そしてまた、住吉と空池の分岐へ。

このあとは、横倉宮方面に来た道を戻り、南遊歩道へ向かう予定。

で、戻っていたら、畝傍山眺望所の入口の手前にー



三嶽古道への分岐があることに気がつきました。
左が古道への道、右が横倉宮・駐車場方面への道です。


案内は、御陵方面から来た人に向けて立っています。
住吉から来ると、背中向き。
下から来た時、なんで見落としたんだろう…。

逆に、横倉宮や御陵参考地はこっちだよ的な案内はありません。
住吉からの戻り、古道に間違って入り込む恐れもあります。
気をつけましょう。

その後は順調に…
畝傍山眺望所の入口を通過。

仁淀・三嶽古道と住吉・空池の分岐を通過。

御陵参考地入口石段前を通過。


そして、横倉宮下の休憩所まで戻ってきました。

  


もう一度、地図をチェック。
この辺りで行ってないところは、と…。

「平家穴」と、「馬鹿試し」はやっぱ横倉宮のとこね。


と云うわけで、まずは、「←平家の穴」を目指します。
道的には、南斜面へ下ります。


石灰岩が露頭した急な坂道。
帰りはこれを登り返すのか…、と思うと少し憂鬱。

道の右側は急斜面。
左側は切り立った石灰岩質の崖です。


どこまで下るんだろう…。
そう思っていたら、崖の下になんか赤いもの、見えた。



崖の下に赤い屋根の小さな祠がありました。


「岩屋神社」だそうです。
目指す「平家穴」は、まだ50m下…。
ここじゃないのね。

文字通り、岩屋=崖が削れえぐれて、屋根っぽくなった場所にあります。

なにげない小祠ですが、実はすごいお宝が眠っていました。
保安3年(1221)の銘の入った経筒が安置されていたのです。
ちなみに、四国最古の経筒です。
安徳天皇に関してはホントに伝説かも知れません。
でも、1221年は、承久の乱が起きた年です。
後鳥羽上皇による執権・北条義時討伐が失敗し、結果、鎌倉幕府が盤石になった年。
あの時代のものが眠っていたのが、この祠なのです。


合掌後、再下降。

道はジグザグしながら下って行きます。



なんか、ポールがあるぞ。


おお、ここが「平家穴」か。

それにしても、めっちゃ、崖の下。
周囲の岩は、落ちてきた岩かな。


で、穴の前に、崖を見上げる僕。


影ができるほど出っ張ってるあの岩、気になるわぁ。


穴は、落ちてきたっぽい岩の奥にあります。
正面から見ると、穴があるようには見えずらい。

安徳天皇一行は、この見えずらさを利用して、避難所にしてたそうです。
源氏らの追っ手は、結構、四国の山の中まで探索してたから。
隠れるのは好都合。
そして、なにか隠すのも、好都合。


人ひとり横向きになればすり抜けられるくらいの幅。


この穴も、実はただものじゃなかったみたい。
明治初め頃まで、刀剣や槍、銅鏡などが残っていたんだとか。

刀剣と云えば、安徳天皇が京を脱する時に持ち出した「アレ」…。
壇ノ浦で共に入水し、源義経らが必死で捜索するも発見できなかった「アレ」ですよ。

三種の神器のひとつの宝剣。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

スサノオが出雲国でヤマタノオロチを退治した際、その体内から見つかった神剣。

八咫鏡、八尺瓊勾玉とともに、三種の神器ですよ。

なのに、いまはどこへ行ったやら…。
これまた伝説になってしまうのか…。

ちなみに、穴の中は、人が立てるくらいの高さのホールが4ヵ所。
ホールの間を這って進むくらい狭い通路が繋ぐ構造になっています。
落石も多く、群発地震の多い時期の入洞はやめておきましょう。
当然、照明なんてありません。

と云うわけで、当然、僕は入洞はスルー。
ゲジゲジに噛まれたくないし。
すごすごと、降りてきた道を登り返すのでした。


そして、再び、横倉宮下の休憩所へ。

次は、「馬鹿試し」。
横倉宮へさらに戻ります。

横倉宮に無事帰還を報告しー


お宮の左側に沿って進みます。


すぐに、トゲトゲした石灰岩が山のように立ち塞がります。
決まった道はないので、ケガしないように登るだけ。


ピークに「馬鹿試し」の看板が。

馬鹿試し

約4億年前の日本最古の石灰岩からなる高さ80メートルの断崖を指し、古くは“玉宝の嶽(たまむろのたき)”と称した。
普通人では容易にその突端には近づけず、敢えて危険を冒して先端に足を運ぶ者は“馬鹿者”の類いと称され、「馬鹿か否かを試す」意味から“馬鹿試し”と呼ぶようになった。
ここの石灰岩の岩上には、植物学者・牧野富太郎博士の発見、命名による『横倉山タイプ植物』の「ヨコグラノキ」った「イワシデ」・「ヒナシャジン」などが自生している。



「馬鹿試し」は看板から崖に向かった、崖の先端部分です。
ゴロゴロした石灰岩の上、ここを行きなさいとばかりに開けてます。


なんか、さっきから、崖ばっかりで怖いんですけど。

でも、見晴らし最高。


ホントの崖の先端はまだ先…。
僕は馬鹿じゃない、ただの臆病者なので、そこまでは行きません。
ここで結構、見晴らしも充分です。

畝傍山眺望所からみた馬鹿試しをもう一度載せておきます。

現在地は多分、露頭してる崖の一番上でもないと思います。
そのまた後ろの茂みの中…。

崖の中程に、黒く影を落としてる出っ張りがあります。
あれはもしや、平家穴から見上げた時に見えたー


あの出っ張ってた岩なんじゃないのか?


正面のお山は、住吉神社のあったピーク。
と云うことは、左っ側のー


この部分が住吉神社のある日置ノ嶽。
ね、横から見るとV字でしょ。


南側の山並み。


眼下に桐見ダムのダム湖。

と云うわけで、はい、もう充分です。
長居すると、高度感が麻痺してきそう。
足がずっとぷるぷるしてるので、戻ります。


雨による浸食で、石灰岩は穴が空いたり、削れたり。
川みたいな水の流れによる浸食なら想像もつく。
でも、雨水だけで、これだけ削られるのって、きっと百年単位だよね?


お宮・本殿の裏に、SONIA看板、ありました。
「32 馬鹿だめし」

ひとりごと

御陵参考地と云い、崖に、穴に、見どころたっぷりなお山歩です。
入山前に、たっぷり下調べしてきたとは云え、実物は、やっぱ、違います。
特に御陵参考地。
ちゃんとしてた (^_^)
そりゃ、これだけちゃんとしてたら、宮内庁の管理下に置かれるのも納得です。

明治時代に伝説地として陵墓の参考地と指定された頃、陵墓は「円丘」だったようです。
現在は、真っ平らですが。
そして四隅に木が生えていたようです。

さて、御陵参考地は「鞠ヶ奈呂」と云う別称があります。
まりがなろ、マリガナロ…。
カタカナにしたら、イタリアっぽい響き (^_^)
地名とは云え、不思議な響きですよね。

「鞠」と云う漢字は、安徳天皇が蹴鞠をされていた言い伝えからです。
そのあとの「ヶ」は、現代語の「ノ」に近い言葉なので、そこはスルー。
言い換えれば、「まりのなろ」。
(ちなみに、「ヶ」は、カタカナの「ケ」とはまったく出自が違う漢字です。
あと、小文字の「ヶ」でも、大文字の「ケ」でも、使う人・機関によって様々に使用されています。
JRと地下鉄で、「市ヶ谷」「市ケ谷」を使い分けていたり。
でも、このサイトでは小文字の「ヶ」しか使いませんけどね。)

じゃあ、「奈呂」ってなんでしょう。
なろってなんなろ~ (^_^;)
看板やネット上の解説をただただコピペして載せているサイトは多いけど。
「奈呂」に引っかかって調べた人はいないわねぇ。
気にならない?
え? 高知では常識だから?
調べてみると、高知の人が知っててもおかしくない事柄がでてきました。

さて、「奈呂」は、「奈路」とも書きます。
「奈路」は、実は、高知だけで使われてる地名、と云うか、とある地形を表す言葉です。
お山の傾斜が不意に緩くなった緩斜面や平かな場所を「奈路」と呼んでいます。
窪川町や四万十町など、高知の中西側の方でよく使われています。
鳥ノ奈路、大ナロ、長者ヶ奈路、本奈路など、たくさんあります。
南国市の北部の山間地に、奈路小学校とかある、奈路って地名、ありますね。

ちなみに、愛媛県では、「なる」になります。
「成」や「平」の漢字が使われています。
例えば、松山城のロープウェイ、その山頂側の駅舎がある地名は「長者ヶ平」と云います。
長者ヶ平は、お山のなかにあって比較的平かな場所です。
ああいうお山の中にある平かな場所が、愛媛の「なる」です。

あと、地面を平にすることを、平す(ならす)と云いますよね。
「ならす」が「なろ」「なる」の先か、あとかは、ちょっと分かりませんが。
更に云えば、奈良県の「奈良」も、平らな土地を表した地名と云う意味です。
奈路の仲間だったりします。

崖だったり、急斜面だったり、険しい面のある横倉山の中。
「鞠ヶ奈呂」は、おだやかに平かな場所です。
ああいう場所を、高知では「奈路」と呼んでいます。
蹴鞠を楽しんだ平らかな場所。
それが、「鞠ヶ奈呂」の地名の由来です。

でも、平らかな場所と云えば、山小屋からちょっと奥にあった、行在所跡。
あそこも、充分に「奈路」っぽい場所です。
実は、鞠ヶ奈呂は、元元は、行在所の場所のことだったんじゃないかって話があります。

以上、鞠ヶ奈呂の由来についてでした。

御陵参考地のあとに訪ねた、畝傍山眺望所。
「畝傍山」と書いて「うねびやま」。
奈良県にある畝傍山は、香具山や耳成山とともに「大和三山」と呼ばれている有名なお山です。
「畝(うね)」は、畑などで直線状に土を盛り上げた所のことです。
畑を横から見たとき、文字通り、うねうねしてますよね。
あんな風に、うねうね、くねくねした尾根を持つ姿から「畝傍山」と呼ばれています。
横倉山の畝傍山は、地形が「うねる」の「うね」の方が由来に近いかも。

次に行った「空池」。
空池に至る坂道を登り始めたとき、道端に大きな石灰岩が露頭し始めました。
それまでと雰囲気が変わった感じがしました。
坂を登ったと思ったら、急に下り。
いま思うと、ドリーネというか、クレーターの中にでも降りていく感じでした。
空池に着くと、水が溜まった池なんてありません。
池か湿原でもあると思っていたので、あれ?ってなりました。
訪問時は、ドリーネだったということはまったく知りませんでした。
石鎚山の瓶ヶ森林道沿いにある「神鳴池」みたいな枯れ池だと想像していたからです。
周囲は木や草がとても繁茂しています。
湿原が自然に乾燥地になっていくように、空池も乾燥化したのかな、と思ったり。

そんな緑たっぷりな空池は、ヨクグラノキはじめ、貴重な植物が自生しています。
牧野富太郎博士が命名した植物も、です。
横倉山自然の森博物館などが中心となって動植物の調査が行われました。
その際、設置した自動カメラにニホンジカが写り込みました。
シカくらいいるだろう、と考えがちです。
でも、実は、昭和から平成にかけ、越知町内でニホンジカの食害例はほとんどなかったらしいです。
ぼちぼち目撃され始めたのは、2005年頃からです。
空池のカメラに映ったのは、2018年の冬と2019年の冬と、冬にだけ出没していました。
それが2020年には、梅雨時の6月に映り込み。
ああ、これは年中うろつき始めたに違いない…。
ってことで、あのネットを設置したんだそうです。
空池の特殊な地形は、貴重な植物を育て、守る、ゆりかごのようなものです。
シカに食べられて、はげ山みたいになったお山もあります。
宇和島の三本杭の山頂付近は、シカの食害を防ぐために、ネットやフェンスで仕切られていますね。
貴重な植物を守るためにも、ネットは仕方ないのです。

住吉神社の崖は、ホント、勇気がいりました。
鎖場のある崖ってことは知っていました。
V字の底へ行ける迂回路があるんじゃないかと探してみましたが、ありませんでした。
意を決して鎖に挑戦。
二ノ鎖の鎖はありません。
最低でも、ここ4、5年前にはすでに無くなっていたようです。
ロープは鎖より切れやすいので、全体重をかけて登っちゃいけません。
まぁ、鎖で、ぶら下がるみたいに、全体重かけちゃ、ダメだけど。
このあとに行った馬鹿試しといい、崖がいっぱい。
横倉山は修験道の道場でもありました。
崖は修験道につきものです。
勇気を試す、と云より、落ちれば即死。
でも、落ちねばまだ生きる意味がこの世にある証拠。
生きる証しを確認する、崖はそんな装置なのかも。

平家の穴のある横倉山の南斜面には、ほかにもたくさんの穴があります。
星ヶ滝洞穴、赤滝洞穴、横地見洞穴…。
あまり知られていない、四国で2番目に深い、50mもある縦穴の洞穴もあるそう。
石灰岩地形ですから、洞穴ができやすいのです。

石灰岩と云えば、同じ南斜面には、石灰岩を採取していた石切り場・採石場もありました。
それは、「土佐桜」と呼ばれたピンク色の石灰岩です
「土佐桜」も、4億年前と云う、日本最古の石灰岩です。
珍しい石なので、ビルの内装とか、目立つ場所に使用されました。
石灰岩には化石が多く含まれています。
珍しい化石もあるのですが、いまは個人でも勝手に採取することができなくなりました。
乱獲による自然破壊を防ぐため、横倉山の南斜面の森は、越知町が買い取り、管理しています。

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