壺神山・滝山
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滝山
距離 約170m
標高差 約30m
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所


次は滝山へ。
滝山の登山口まで2.5km。
舗装された道で繋がっていますが…。

また、すみません、途中で写真、撮ってません。

いきなりですがー




登山口直前の林道分岐から、です。
下灘からの道や長浜への道とか、分岐合流しています。

左へカーブして進みー


S字カーブを抜けるとー




落ち葉が積もる林道の左脇にー


「滝山城跡 →」
滝山への登山口があります。
山頂は滝山城の城跡となっています。


スギの根方にある踏み跡を登ります。




登山口と山頂との標高差は30mほどです。
距離も150mくらいしかないので、案外、すぐ着いちゃいます。




途中、ちょっとだけ、海が見えます。


下灘方向の静かな海。




城跡らしい段差が現れました。

堀切の跡です。


滝山城の縄張り図を載せておきます。
(大洲教育委員会著「滝山城跡」より)
滝山城は左右、ふたつに遺構が確認されています。
滝山山頂は右の遺構にあります。
登山口は、上図の右側になります。


こちらが山頂部分の縄張り図です。
いまは、右側の「堀切4」にいます。
「郭1」にある山頂へ向かっています。


堀切を横から見ると、V字に地形が改変されているのが分かります。




堀切の段差を登り、ちょっとした平らの奥にー


郭1の段差が待ち構えています。


登る前に振り返ると、平地はこれくらい。


段差の左寄りに石段があります。




郭1の東端。
林の奥に石積みの祠が見えています。

山頂=郭1のパノラマです。




祠がある滝山山頂に到着しました!

ふたつの部屋がある珍しいタイプの祠です。
右の方が木枠が大きくなっています。


向かって左側。


右側。
ほぼ同じ大きさの瓦社が祀られています。
でも、左右で木枠の大きさが異なっています。
祀られているものが平等でないと云うことでしょうか。
男女や上下関係(地位)のように。


手水も置かれています。


直立した石版もありました。
文字の類いは確認することができませんでした。




10mほど、祠の後ろに三角点があります。


「滝山」四等三角点、
標高は、726.18mです。

平成7年に新たに埋設されたので、金属板も付いてます。


近くに破去された小祠の残骸。


山頂からは海が微妙に見えるだけです。
冬涸れたら、もっとよく見えると思いますが。

山頂を横から見たパノラマ。


西側には、一段低く下がった、まだ平らな部分があります。




降りてみると、堀切がありました。
上の縄張り図で云えば、堀切1。


こんな感じのV字溝。

堀切の向こう側へ。




郭3です。

さらに進み、一段下って振り返るとー




郭3はこれくらいの段差がありました。

この日は、これ以上、西には進みませんでした。
でも、まだまだ、遺構はあったようです。


こちらは、さらに西にある遺構。
郭4と5があるようです。

以前、北を横切っている林道に向かって土砂崩れが発生しました。
この縄張り図は、遺構の調査の際に作成されたものです。

ひとりごと

トップページでも解説したように、滝山城の詳細が書かれた当時の資料は残っていません。
正確な築城年も廃城した年も、城主も、正確には分かりません。
唯一、江戸時代に書かれた「大洲旧記」が手がかりです。

中世の肱川周辺、喜多郡一帯は、伊予の守護だった宇都宮氏が地頭を勤めていました。
そこに河野氏が侵入し、戦が勃発。
宇都宮氏は土佐の一条氏の加勢を受け、河野氏は中国の毛利氏に助けを請いました。
戦の結果は、河野・毛利連合軍の勝利。
すると、宇都宮氏の家臣だった大野直之が下剋上。
土佐の長曽我部氏の力も借りて、肱川周辺の城を次々に攻略していきました。
一方、滝山城などの領主だった津々喜谷氏などは、反大野氏だったようです。
やがて、大野氏も河野・毛利連合軍と激突。
ここでもまた、河野・毛利連合軍の勝利で終わりました。
地方で小競り合いをしているうちに、中央では豊臣秀吉が台頭。
四国に攻め寄せてきました。
道後の湯築城も攻略され、河野氏は降伏。
大洲城主だった大野氏も抵抗むなしく、降伏しました。

滝山城主だった久保氏は下野し、庄屋に。
久保行春は、串村の満野森に移り住み、串・大久保・今坊の3ヶ村の庄屋を勤めました。
後に分家して、串村庄屋と今坊村庄屋の2家に分かれたそうです。
今坊村側の久保氏は、明治時代には喜多灘村の村長まで勤めています。

滝山城跡は、堀切や郭など、土地の記憶が、城が実在したことをいまに伝えています。
何百年も前の人が改変した土地が、いまでもはっきりと分かるくらいに残っています。
これが麓の館跡なんかだったら、とっくに何メートルもの土や泥の下です。
お山の上だからこそ、残ることができたのでしょう。
でも、土に埋もれることはなくても、土砂崩れなどで遺構そのものが消滅する可能性は否めません。

平成17年(2005)、滝山の林道で大規模な土砂崩れが見つかりました。
高さ50mもの土砂崩れでした。
調査すると、それは、城跡付近から発生していました。
石積みの一部も崩落していたそうです。
山頂から100mほど西にある西郭部の、第4の郭、第5の郭の北側が崩れていました。
とは云え、石積みなどは、土砂が崩落したからこそ、確認できた感もあります。
土砂崩れがなければ、きちんとした調査も行われなかったかも、です。

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