壺神山・滝山は、往古の歴史を持つお山です。
伊予灘の直線的な断層海岸を形成した中央構造線の南、大起伏山地の出石山脈に属します。
地質的には、三波川帯の主要岩石である結晶片岩でできた山々です。
壺神山は、大洲市と旧長浜町と旧双海町に跨るお山です。
標高970メートルは、喜多郡の最高峰です。
山名の「壺神」は、古代の神様・少彦名命が置き忘れた薬壺に由来します。
神代の時代、少彦名命は、大国主命と共に伊予国にやって来ました。
少彦名命は農耕の神様であると同時に、医薬の神様でもありました。
けれど、自身の病を治すことはできず、道後の湯で湯治し、全快。
その後、大国主命と別れ、大洲を訪れました。
まず、のちに壺神山と呼ばれるお山に立ち寄りました。
山頂から見えた、あまりにも素晴しい風景に気をとられ、愛用の薬壺を忘れてしまいました。
壺の中にあった秘薬により、多くの住民らが助かったことから、薬壺は御神体として祀られました。
それが、壺神山の名の由来です。
また、少彦名命が村々を回り、壺の中の薬で人々を助けたり、薬の調合法を教えたことから、薬壺を祀るようになったという別の言い伝えもあります。
いずれにしろ、少彦名命の薬壺が由来であることは変わりがありません。
現在、薬壺は4ヵ所で祀られています。
大洲市田処、戒川大平、双海町壺神 、双海町松尾にある壺神神社で。
けれど、時代を遡ると、壺は8個も存在していた云う古老の話もあります。
場所は、イトマント、新開、サジボ、奥ノ田、湯ノ地、ビルが谷、岡ノ向ヒ、小谷で、詳細は不明です。
壺に触ると雨が降ると云われています。
それ故に、干ばつ時の雨乞いに利用されたりもしました。
壺神山の南東のピークにある壺神神社にも壺が祀られています。
昭和60年(1985)に落慶された比較的新しいお社です。
滝山は壺神山の北に連なるお山です。
山頂には中世城址の滝山城跡があります。
別名・田風呂喜城とも呼ばれる滝山城は、残念ながら、詳細を記す当時の文献や資料がほとんどありません。
後世の資料からは、正平19年・貞治3年(1364年)に、久保家が城主となったと記されています。
築城はその前年とする説もあります。
また、下野国宇都宮郷滝村出身の宇都宮行胤が、米津に築城した瀧之城の支城のひとつと云われています。
宇都宮行胤は、津々喜谷氏と名を改めますが、津々喜谷氏の被官だった久保氏が城を任されたと考えられます。
伊予の各城が、天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国平定の命を受けた小早川隆景らの攻撃を受けた際に、滝山城も落城したと想像できますが、廃城についても当時の資料は残っていません。
江戸時代に書かれた資料では、四国平定後、城郭の統廃合が指示された際に、城主の久保氏も下野したと書かれています。
久保氏は、串・大久保・今坊の3ヶ村の庄屋を勤めたそうです。
串村庄屋となった久保家には、鎧や旗が伝わっていました。
それらは、庄屋文書とともに愛媛県歴史文化博物館へ寄託されています。
|