日浦の城山
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両新田神社
距離 約200m
標高差 約50m
国道・県道
一般道
徒歩
下記写真の場所
今日はお城跡を巡ってきました。
旅の終わりに、賀生城の脇屋義治、吉野森城の新田義宗のお墓を訪ねました。


県道の分岐の手前、つい最近まで写真のような大看板があったところを左折します。
日浦中学校へ行く道です。
河中橋を渡り、対岸へ。


橋を渡り終え、30mほど進んだ左側にー




山の方へ向かう坂道があります。


道なりに上ります。




両新田(りょうにった)神社の入口に到着。
滑り台がある広場にバイクを駐車しました。


右側には、河中公民館があります。


滑り台のほか、ブランコもある児童公園的な空間。
その端っこに、夕陽を背にした大きなツバキの木がありました。


根方に祠が祀ってあります。

ツバキ 一本

松山市指定天然記念物
昭和48年8月19日指定

 和名、ツバキ。
自生種はヤブツバキやヤマツバキと呼ばれている。
根まわり5.1メートル、高さ10メートル、枝張り東西15メートル、南北14.5メートルもあり、ツバキのうちでは県下第一の大木である。
現在のツバキはひこばえが成長したもので、中心部には枯渇した親木の跡が空洞になっている。

 昔、南北朝の戦いに敗れた新田義貞の子新田義宗が従弟の脇屋義治とともに少数の者を従え、この地に落ちのびて来た。
そのとき杖にしていたツバキの枝を突き立てたまま放置したところ、根付いて花を持つようになった。
後世「お杖椿」とか「新田椿」とか呼ばれて今も大切にされている。

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横から見ると、支えなきゃならないくらい、ぐぐっとせり出しています。


ツバキってこんなに大きくなるんですね。


ブランコの横に、石碑とー


「義宗公腰かけの石」があります。

では、石垣の上にある拝殿へ。


石鳥居をくぐった石段の先にー


「両新田神社」と彫られた石碑。
その前で参道は左に曲がりー


拝殿へ、石段をもう少し登ります。




狛犬コレクション、阿とー


吽。

境内はこんな感じです。


拝殿へ。


2礼2拍手1礼、無事登山を報告、感謝。


扁額。


拝殿の天上に、御神輿がありました。
担ぎ棒が拝殿の壁から飛び出してます。


右側にもありました。
こっちの担ぎ棒は古め。
床置きじゃないのは、雨風を避けるためかな。

新田義宗と脇屋義治を祀った社を建てたのは、伊予の武将・河野通直。
それも、新田義宗を上新田神社に、脇屋義治を下新田神社に、それぞれ祀りました。
明治時代、二つの神社はひとつに合祀されました。
そのときに、両新田神社と社名が改められました。

神社の裏山に新田義宗と脇屋義治のお墓があります。
訪ねてみました。


狛犬の後ろにあるー


階段の小路を上がります。


そして、ジグッとー


ザグっと曲がるとー




左上にある古い五輪塔が脇屋義治のお墓です。


日浦の伝承では、応永12年(1406)8月7日、83才で逝去したとのこと。


さらに、小路を登ります。



開けた畑に出ました。

さらにまっすぐ登るとー


畑の上部にササのトンネル。




トンネルを抜けてすぐ、左に曲がるとー


石積みされた墓所、五輪塔がありました。


応永12年(1405)11月5日、74才で病死した新田義宗のお墓です。

と云うことで、日浦の城山お山歩、終了です。


いやいや、すっかり、日も傾いてしまいました。
取りあえず、日没までに全部訪ねられてよかったです。

ひとりごと

お山歩の最後に、両新田神社にお参り。
脇屋義治と新田義宗のお墓があるって知ったからです。

新田と云えば、市内にある新田高校を思い出す人もいると思います。
新田高校は、明治時代の実業家、新田仲太郎が設立しました。
その仲太郎本人が、新田家は新田義貞の一族の末裔だと言っていたそうです。
新田高校は、新田義貞や義宗と無関係ではなかったようです。
また、仲太郎の親戚の新田長治郎も実業家として活躍。
長治郎は、いまの松山大学にあたる松山高等商業学校設立の費用を全額負担したそうです。

さて、公園にあった「義宗公腰かけの石」。
似たようなもので、菅原道真や弘法大師が腰かけた岩なんかは、よくありますね。
こう云うのは、ちょっと、アトラクション的というか、客寄せパンダのような、正直、まゆつばな気がします。
でも、お山にあったお墓はとてもホンモノな雰囲気がありました。

さて、上新田神社と下新田神社が合祀され、誕生した両新田神社。
愛媛県内には、「新田神社」が少なくとも15社、存在します。
そのほとんどが、新田義貞や義治、義宗を主祭神として祀っています。
脇屋義治や新田義宗が疫病で亡くなったと云う伝承から、疫病除けに御利益があったりするようです。
そのほか、徳島や高知にも多数存在します。
合わせると40社を越えます。
新田義貞の出身地や彼が治めた地に神社があるなら分かります。
それに、脇屋義治や新田義宗が四国に落ち延びたという話は伝承の域。
新田神社が1社や2社はでなく、こんなにたくさんあって、新田氏が神様として崇敬されている現実。
やっぱり、四国に落ち延びたと云うのは、あながち、作り話ではないかも知れません。
そして、信じるものは救われる、です。

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