日浦の城山
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賀名生山
距離 約1.1km
標高差 約90m
距離 約150m
標高差 約30m
国道・県道
一般道
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所


日浦トンネルの今治側口で国道317号線と合流。
水口集落へ向かいます。



わっと視界が開けます。
水口、河中、藤野の三集落が国道と石手川で接している、広い谷。
石手川ダムから水ヶ峠トンネルまでの間で、一番、人家が多いところ。

正面に見える三つのお山ー

真ん中の一番小さなお山が、次に目指す城山の「賀名生山」です。
山頂には「賀生(かのう)城」と云うお城がありました。

真横?から見ると、麓は段々畑。
山頂がふたつある、ふたこぶピークみたい。

ルート的には、写真右側の谷を進んで、背後から山頂を目指します。



JA河中支所や、集落唯一の信号機があるところで左折しー


太陽石油のスタンド(いまはもうないけど)の横を通り、石手川を渡ります。
突き当たりまで進みー



突き当たりを左折したら、すぐにあるー




右に分かれ登る坂道へ。

道なりに、賀名生山東麓の谷へと進みます。




この右カーブは、道の左右に鎖のゲート用の鉄柱があります。
もしかすると、鎖で車両が入れないようになっているかも知れません。
注意しながら通行して下さい。

鎖で封鎖されていたら、クルマは国道とかずっと手前に駐めないと迷惑になりますね。


道はすぐに左右の山に挟まれた谷となります。




人の気配があるのはここまで。




賀名生山の裏手まで来ました。
写真の分岐で北上する林道と分かれ、左へ曲がります。


進む左分岐はコンクリートの簡易舗装。
道幅も狭い。
一般的なクルマは走行しづらいと思います。

カーブの内側にー


とても小さな祠があります。

道なりに坂道をくねくねと登って行くとー


やがてー




賀名生山の北尾根に乗ります。
ここは、笠目峠。
ここまではバイクで来られました。
二股に分かれていますが、直進で。


山頂はもうすぐです。


右下に文字の多い看板がありました。
愛媛県労働金庫が創立45周年を記念して植樹した旨が書かれてました。
史跡の看板ではなかったです。




足下は落ち葉を踏みしめる小路に。


落ち葉を踏んだときのサクサク音が気持ちがいい。



ふたつのピークがある山頂部。
そのふたつのピークの間に到着。
一番高いピークは写真左にあります。

道のすぐ左横の盛り上がりが一番高いピーク。



賀名生山山頂に到着!


三角点はなく、測量の杭があるだけでした。
また、小屋が建てられるほどの平地もありません。

北斜面は、結構、伐採されていてー

山頂で一番、見晴らしがききました。

見えるのは一般的な地図では名前のないお山ばかり。
でも、明治期の地図では、萩野ヶ森、勘飛山、平ノ田ノ森、大岡(もしくは、上ノ山)の名が見られます。


東に延びる支尾根が気になったので、進んでみました。



ここはちょっと平らかな。

ふたつのピークに挟まれた鞍部に戻ってきました。
最後に、先に見える、もうひとつのピークへ向かいます。




明確な道はないので、尾根に沿って進みます。


山頂手前は木の間隔が広く、山頂部はスギの植林地。
手前は水口町、植林地は河中町と、町境が植生ではっきりくっきり。。



植林のなかにあるピークに到着。
こんもりと丸く、そんなに城跡っぽさがないです。
植林する過程の地形変化を受けたのかも。

林の先まで行くとー


国道や集落が林越しに透けて見えました。


日浦には古来から、今治と道後を結ぶ古道がありました。
大きな山城は無理でも、往来を監視する機能があった砦くらいは建ってたかも。


ピークを振り返って。

と云うわけで、賀名生山お山歩終了。
バイクを駐めたの笠目峠まで戻りました。

そしたら、さっきは全然、気づかなかったー


お地蔵様を見つけました。
西に下っていく道の側にありました。
写真右の花崗岩がお地蔵様の「笠目地蔵」さんです。
万病に霊験があったそうで、線香の煙が絶えないほど、参拝者が多かったそう。

でも、胸の辺りで割れちゃってる。
トタンの屋根も落ちちゃって、祠の体をなしてない。
雨ざらしじゃかわいそう。
まず、お地蔵様をまっすぐ立て直し。
そのあと、トタンを後ろのタケに立て掛ける感じで屋根にしました。

ひとりごと

山を越えて今治方面へ往来する際、必ず通る日浦。
当然、周囲は山また山。
登れそうで登れなさそうなお山ばかり。
賀名生山もそのなかのひとつ。
でも、城跡だって云われない限り、登ることはなかったかな。
「お山へ行こう!」を始めたばかりの頃に目を付けていたら、登ってたかな。
明治期の地図にしか山名が載ってない、周囲のお山を繋ぐようにして。

山頂には「賀生」と書いて「かのう」と読むお城があったそうです。
別名は「賀名生城」。
現在の山名の元になっているのは、別名の方です。
南北朝時代の武将・脇屋義治が居城したお城と伝えられています。

脇屋義治は、新田義貞の甥。
その新田義貞と共に戦った武将です。

新田義貞は、鎌倉に侵攻し、鎌倉幕府を壊滅させた人物です。
後醍醐天皇の元で建武の新政に参加しました。
けれど、足利尊氏、楠木正成、後醍醐天皇らの抗争に巻き込まれ、戦ばかりの日々を過ごすことに。
九州で勢力を回復した尊氏に追い詰められ、味方だった後醍醐天皇に裏切られる形で、最後は朝敵となって亡くなりました。
矢を眉間に受けて亡くなったときは、まだ37歳だったらしい。
17歳で当主となり、元弘の乱に参戦した31歳まではのんびりしてたんだろうなぁ。
33歳で鎌倉幕府を滅ぼしてから、亡くなるまでの数年間は、東奔西走、戦に明け暮れてばかり。

さて、そんな義貞と共に戦ったのが、脇屋義治です。
だから、簡単に云うと、南北朝の動乱で敗れた南朝側の勢力に属していた人物です。

義貞の弟で、義治の父・義助も義貞と共に転戦しました。
義貞が戦死したのち、南朝方の総大将となり、最後は今治に着任しています。
当時の四国は、讃岐・阿波の細川頼春が伊予に侵攻し始めていました。
北朝側の細川頼春を蹴散らすため、当時の伊予の土豪、土居氏・得能氏らに協力。
でも、着任早々、急病で亡くなってしまいました。
お墓は、今治の唐子浜にある唐子山の南にあります。
ちなみに、細川頼春は義助の死後、今治の世田山城を攻略しています。

義治の話に戻ります。
彼の晩年についてや没した年、場所について書かれた資料は見つかっていません。
丹波や陸奥で活躍した旨の伝承がいくつかあるくらいです。
そのなかのひとつの舞台が、この賀名生山です。

父の死後、義治は、新田義貞の子・義興、義宗、後醍醐天皇の子・尊良親王らと共に行動。
息子世代が集まってて、まるで、ヤングアベンジャーズ。
でも、新田義貞の死以降は没落の一途。

義治の生まれは、元亨3年(1323)だそう。
義貞が亡くなったのが延元3年/暦応元年(1338)。
その時点でまだ15歳。

ヤングアベンジャーズは父世代の死後も南朝方のために頑張り続けます。
正平23年(1368)に挙兵するも敗北した記録が、もっとも明確な最後の記録です。
それ以降は消息不明、伝承の類いになります。

その伝承のひとつが、日浦の賀名生山です。
永徳4年(1384)頃、まず、大島の稲井城に落ち延びてきました。
居心地がよかったのか、そこで、姓を稲井に改めたなんて話もあります。
大島からさらに落ち延びたのが、ここ、日浦。
ここで晩年を安穏に過ごしたと地元では伝わっています。
その際、城を建てて住んだと伝わるのが、この賀生城です。
また、別の話では、さらに宇和まで行ったという話も。

南北朝時代は、敵味方が入り乱れるので、ホントに分かりづらい。
誰を主人公として見るかによって、ストーリーがガラッと変わってしまいます。
新田義貞なんて、鎌倉幕府を滅ぼした、朝廷にとって最大の貢献者。
なのに、足利尊氏らに追い詰めれてしまう。

さて、賀名生山は道さえ分かれば、実に登りやすいお山でした。
国道から歩いても、そんなに遠い距離ではないと思います。
比高もそんなにないですから。

義治が賀生城を築城したと云われています。
でも、大島の稲井城同様、元元、屋敷かなにか、あったのではないでしょうか。
日浦では「蟄居」していたそうです。
江戸時代なら、蟄居とは、屋敷の一室で謹慎させる刑罰です。
でも、田舎で隠居暮らしすることも蟄居と云います。
どちらにせよ、城を建てて住むのって、蟄居っぽくない。
山頂もそんなに平らなところがないし。
城として機能しだしたのは、戦国時代になってからじゃないかなぁ。

さて、日浦の伝承では、応永12年(1406)8月7日、83才で亡くなったとのこと。
賀名生山の東麓にお墓、位牌は円福寺にあるようです。

それから、ある資料で目にして以来、ずっと探し当てたいものが水口にあります。
それは、「水口鉱泉」。
山の中へ少し入ったところに温泉が自噴してるところがあるらしいんです。
「日浦の里」と云う郷土資料に、
水口の北約700mの町のはずれに在り、高さ4mの花崗岩の切り立った面の下部の裂け目からは、毎分約10Lの鉱泉を自噴しており、温度は22.2度C、無色、無味、無臭で透明です。

だそうです。
700mだから、そんなに山奥じゃない。
畑仕事してるお年寄りに聞いてみたら、教えてもらえそう。
22度は、お湯ってほどの温度じゃないけど。

この鉱泉の誕生譚には、なんと、脇屋義治と新田義宗が登場します。

言い伝えによりますと、応永8年(1401)7月、湯山地区に疫病が流行した際、新田義宗、脇屋義治二公を始め一族も罹病し、光明寺で平癒を祈願しましたが、この時、延寿山本山寺の住職が天下滝に打たれながら、同じく平癒を祈願しておりますと、滝の下手の岩の上に神像が現われ、その足もとから濛々と湯煙が立ち昇りました、住職は歓喜し、この湯を吸んで両公や里人に与えたところ、霊感があったと言われております。

面白いですね。

町として、温泉開発など検討したみたいです。
でも、道後温泉の、奥道後温泉の、さらに奥ですから、交通事情も悪いしでやめちゃったそうです。
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