へ行こう!
賀名生山 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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①日浦トンネルの今治側口で国道317号線と合流。
水口集落へ向かいます。
②わっと視界が開けます。
水口、河中、藤野の三集落が国道と石手川で接している、広い谷。
石手川ダムから水ヶ峠トンネルまでの間で、一番、人家が多いところ。
正面に見える三つのお山ー
真ん中の一番小さなお山が、次に目指す城山の「賀名生山」です。
山頂には「
真横?から見ると、麓は段々畑。
山頂がふたつある、ふたこぶピークみたい。
ルート的には、写真右側の谷を進んで、背後から山頂を目指します。
③JA河中支所や、集落唯一の信号機があるところで左折しー
太陽石油のスタンド(いまはもうないけど)の横を通り、石手川を渡ります。
突き当たりまで進みー
④突き当たりを左折したら、すぐにあるー
⑤右に分かれ登る坂道へ。
道なりに、賀名生山東麓の谷へと進みます。
⑥この右カーブは、道の左右に鎖のゲート用の鉄柱があります。
もしかすると、鎖で車両が入れないようになっているかも知れません。
注意しながら通行して下さい。
鎖で封鎖されていたら、クルマは国道とかずっと手前に駐めないと迷惑になりますね。
道はすぐに左右の山に挟まれた谷となります。
⑦人の気配があるのはここまで。
⑧賀名生山の裏手まで来ました。
写真の分岐で北上する林道と分かれ、左へ曲がります。
進む左分岐はコンクリートの簡易舗装。
道幅も狭い。
一般的なクルマは走行しづらいと思います。
カーブの内側にー
とても小さな祠があります。
道なりに坂道をくねくねと登って行くとー
やがてー
⑨賀名生山の北尾根に乗ります。
ここは、笠目峠。
ここまではバイクで来られました。
二股に分かれていますが、直進で。
山頂はもうすぐです。
右下に文字の多い看板がありました。
愛媛県労働金庫が創立45周年を記念して植樹した旨が書かれてました。
史跡の看板ではなかったです。
⑩足下は落ち葉を踏みしめる小路に。
落ち葉を踏んだときのサクサク音が気持ちがいい。
⑪ふたつのピークがある山頂部。
そのふたつのピークの間に到着。
一番高いピークは写真左にあります。
道のすぐ左横の盛り上がりが一番高いピーク。
⑫賀名生山山頂に到着!
三角点はなく、測量の杭があるだけでした。
また、小屋が建てられるほどの平地もありません。
北斜面は、結構、伐採されていてー
山頂で一番、見晴らしがききました。
見えるのは一般的な地図では名前のないお山ばかり。
でも、明治期の地図では、萩野ヶ森、勘飛山、平ノ田ノ森、大岡(もしくは、上ノ山)の名が見られます。
東に延びる支尾根が気になったので、進んでみました。
⑬ここはちょっと平らかな。
ふたつのピークに挟まれた鞍部⑪に戻ってきました。
最後に、先に見える、もうひとつのピークへ向かいます。
⑭明確な道はないので、尾根に沿って進みます。
山頂手前は木の間隔が広く、山頂部はスギの植林地。
手前は水口町、植林地は河中町と、町境が植生ではっきりくっきり。。
⑮植林のなかにあるピークに到着。
こんもりと丸く、そんなに城跡っぽさがないです。
植林する過程の地形変化を受けたのかも。
林の先まで行くとー
国道や集落が林越しに透けて見えました。
日浦には古来から、今治と道後を結ぶ古道がありました。
大きな山城は無理でも、往来を監視する機能があった砦くらいは建ってたかも。
ピークを振り返って。
と云うわけで、賀名生山お山歩終了。
バイクを駐めた⑨の笠目峠まで戻りました。
そしたら、さっきは全然、気づかなかったー
お地蔵様を見つけました。
西に下っていく道の側にありました。
写真右の花崗岩がお地蔵様の「笠目地蔵」さんです。
万病に霊験があったそうで、線香の煙が絶えないほど、参拝者が多かったそう。
でも、胸の辺りで割れちゃってる。
トタンの屋根も落ちちゃって、祠の体をなしてない。
雨ざらしじゃかわいそう。
まず、お地蔵様をまっすぐ立て直し。
そのあと、トタンを後ろのタケに立て掛ける感じで屋根にしました。
ひとりごと | ||
山を越えて今治方面へ往来する際、必ず通る日浦。 山頂には「賀生」と書いて「かのう」と読むお城があったそうです。 脇屋義治は、新田義貞の甥。 新田義貞は、鎌倉に侵攻し、鎌倉幕府を壊滅させた人物です。 さて、そんな義貞と共に戦ったのが、脇屋義治です。 義貞の弟で、義治の父・義助も義貞と共に転戦しました。 義治の話に戻ります。 父の死後、義治は、新田義貞の子・義興、義宗、後醍醐天皇の子・尊良親王らと共に行動。 義治の生まれは、元亨3年(1323)だそう。 ヤングアベンジャーズは父世代の死後も南朝方のために頑張り続けます。 その伝承のひとつが、日浦の賀名生山です。 南北朝時代は、敵味方が入り乱れるので、ホントに分かりづらい。 さて、賀名生山は道さえ分かれば、実に登りやすいお山でした。 義治が賀生城を築城したと云われています。 さて、日浦の伝承では、応永12年(1406)8月7日、83才で亡くなったとのこと。 それは、「水口鉱泉」。 山の中へ少し入ったところに温泉が自噴してるところがあるらしいんです。 「日浦の里」と云う郷土資料に、 水口の北約700mの町のはずれに在り、高さ4mの花崗岩の切り立った面の下部の裂け目からは、毎分約10Lの鉱泉を自噴しており、温度は22.2度C、無色、無味、無臭で透明です。 だそうです。 この鉱泉の誕生譚には、なんと、脇屋義治と新田義宗が登場します。 言い伝えによりますと、応永8年(1401)7月、湯山地区に疫病が流行した際、新田義宗、脇屋義治二公を始め一族も罹病し、光明寺で平癒を祈願しましたが、この時、延寿山本山寺の住職が天下滝に打たれながら、同じく平癒を祈願しておりますと、滝の下手の岩の上に神像が現われ、その足もとから濛々と湯煙が立ち昇りました、住職は歓喜し、この湯を吸んで両公や里人に与えたところ、霊感があったと言われております。 面白いですね。 町として、温泉開発など検討したみたいです。でも、道後温泉の、奥道後温泉の、さらに奥ですから、交通事情も悪いしでやめちゃったそうです。 |
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