日浦の城山
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二之森
距離 約1.8km
標高差 約100m
距離 約450m
標高差 約50m
距離 約750km
標高差 約50m
国道・県道
一般道
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所

国道317号線。
石手川ダム、ダム湖を通り過ぎると間もなく現れる日浦トンネル。


トンネルには入らず、左の旧道へ。

旧道に入ってすぐ左(北側)を見ると、目指す二之森が見えてます。
写真中央の三角お山の一番高いところが山頂です。


旧道沿いには、トンネル開通前からあったー


「日浦地区案内図」




二之森の登山口のある上総地区への入口にはー


いまはもう廃線の河中線「上総橋」バス停がありました。


バス停向かいにある上総橋を渡ります。


イノシシマークが目印。


橋を渡った反対側はー


イノシシにおサルさんが乗ってます。


橋を渡ったら右折し、車道を上ります。


1.5車線の狭い道です。
尾根を回り込むようにして上り進むとー



上総集落のある谷へ。
右は集落内に入る道。
お山は左の道を進みます。

あ、ちなみに「上総」は、地元で者「かんさ」って呼ぶこともあるそうです。
松山市役所的には「かずさ」ですが。

家が数軒と周囲に段々畑。
廃屋も多くなってしまいました。




道路の右下に神社があります。

河内神社です。

河内神社

昔、梅木町と上総町の中間辺り「古宮」というところにあった両部落共同の氏神「河内八社大明神」を二つに分け、それぞれの部落でお祭りしたことに始まると伝えられている。
創建時期は不詳であるが、ご神体に寬成10年(1798年)と記されており、今から約210年以上前のことと考えられる。
河内神社の建つ場所は「的場」という地名が付けられている。
その昔、ここで悪疫退散や五穀豊穣を祈り、弓を射る神事(弓祈祷)が行われていたと伝えられている。
明治42年(1909年)、藤野町「天一神社」に併合されるも、今まで上総地区の鎮守として、ここに住んでいる人々やかつて住んでいた人々によって大切にお祭りされている。
境内には、三輪田米山書の「戦捷記念」の石碑が建つ。
平成26年2月 上総町内会・五明地区まちづくり協議会


社殿。


お山歩の無事をお願い、合掌。




集落で一番高いところにある家が真横に見える辺りにある丁字路を左へ。


丁字路はこんな、くぃっとUターンするようなカーブ。
ぐぃーんと上るとー




光が差す尾根の上に出ます。

こんな風に開けています。
写真左に真新しいお堂があります。
二之森は右の簡易舗装じゃない道を進みます。


その前に、お堂をちらっと見学。


「上総地蔵堂」だそうです。
点在していたお地蔵様を、文字通り、一堂に会したのかな。

ちなみに、お堂の後ろは「柴竹山」と云います。
お堂の横の道を進んだ先のピークは「池ノ本山」。
どちらも、明治初期の地図にしか登場しない山名です。


二之森へは、右にある二つの道のうち、舗装されていない道を進みます。
簡易舗装された道は山上にある畑に行く農道です。




谷に入ると、簡易舗装になります。
古いのでガタガタですが。
よそ者が入りづらいように、入口は舗装してないのかな。


右上は竹林が伐採され、明るい。
けど、谷は薄暗い。
路面には落ち葉とか、タイヤが滑ります。



谷の分かれ道にある登山口に到着です。
さぁ、どうしようポイント。
家で予習してきたときは、右へー


谷を北上する道を進むって決めていました。
実際、こちらへ進むのが楽ですし、正解のルートです。

でも、今日はなぜか、反対を選択してしまいました。


左に別れた、怪しい道になぜか惹かれてしまいました。


この道のどこが、山頂まで続いてると思ったのか…。
いまとなっては分かりません。


朽ちた倒木もあるしー


路肩、崩れてるし。
でも、「古道」に見えてた…。
きっと、夏草ボーボーだったら、行かなかったはず。


陽が差す明るい場所に近付きました。



南斜面に出ました。
ちょっとした平らかな場所です。
城跡の曲輪跡のようでもあるし、でも、畑として開墾されただけかも。
果樹園とか、ミツマタの畑とか。

さてと、周囲を探索。
でも、道はここで途切れていました。
普段なら引き返す場面。
とりあえず、地図とGPSで確認したら、山頂との標高差が70mほど。
まぁまぁあるけど、なぜか行ける気がしてた。
なので、ついー


見上げてしまった…。


いまの季節なら、行けるかも…。

で、道なき斜面を直登してみました。

もう一度云っておきますが、このルートはお勧めしません。
あとで紹介する林道ルートが正解です。




写真で見るより急な斜面です。
ふんわり溜まった落ち葉や腐葉土で踏ん張れなくて、ずるずる滑ります。
そこに伐採放置された丸太や灌木が邪魔してきます。
三歩進んで二歩下がるほどじゃないけど。
そもそも、うちのサイトは、道のない直登ルートは避けてきたんだけど。

てなことで、山頂まで15分くらいかかりました。

この斜面に城跡っぽい地形は一切ありませんでした。
ちょっと期待して登ってみた部分があったのに、残念。



急斜面が終わり、山頂の南端に着きました。
標高は450mほど。

二之森の山頂部分は南北に長い楕円形です。
でも、城跡ながら、最後まで平坦な場所はありませんでした。
北に向かってまだ微妙に傾斜し続けます。



地形図上に471mの標高点が打たれている、二之森山頂に到着しました。


最高地点に育つ木。

この山頂について、松山市埋蔵文化財包蔵地図を見ると、
「ニ之森(ふたつ森)城跡 城館跡 中世」と記載されています。

明治期の地図『風早郡地図 地誌付』には、
「二ッ森山」とあります。

愛媛県教育委員会発刊『愛媛県中世城館跡』のニ之森城は、
縄張り規模 55×22mとありますが、詳細はありません。


石垣、いや、石積みに使われていたような岩がごろごろ。
自然に露頭した岩っぽくはないです。
やっぱり、山城で使われてたのかな。

曲輪の跡とか、いまいち分からないまま、下山に取りかかりました。

と云うわけで、これから下るルートが正解のルートです。
まぁ、山頂からしばらくは道らしい道はないんだけど。

ちょっと下ったところから振り返って撮った山頂部。

以降、下りながら撮った、下向きの写真ばかりです。
登り目線の写真が少ないです、ごめんなさい。


尾根っぽい部分を北へ、下ります。

またちょっと山頂方向を振り返って。




尾根に沿って下るとー

写真中央の木の回りが少し平らな場所になってました。
曲輪の跡っぽいです。



もう少し下ったところにも細長い平らな場所。
ここも曲輪っぽく見えました。

下から登ってきた場合は、ここからは尾根地形だけが頼りになります。


そこから、細い平地は道っぽくなって北へ延びています。


道は少し尾根から外れますがー

また尾根と合流。


山頂方向を振り返ると、こんな感じ。



そしてまた、曲輪っぽい平地。


尾根に沿って林の中へ。

道はやがてー



二股に分かれます。
尾根に沿って行く道と、右下に下る道のふたつに別れます。
右下に下る道を進みます。

山頂方面を振り返ると、こんな感じです。



カーブした林道と出会いました。
林道を右にたどり下れば、の登山口へ降りられます。

林道から下ってきた道を振り返ると、こんな感じ。
案内看板とかはまったくありません。
なので、GPSなどで現在地を把握していないと、通り過ぎちゃうかも。

あとは林道をたどるだけ。




谷川に沿って直進する林道と合流し、右にくぃっと曲がります。

下から登ってきたときは、間違って直進しないように。


くぃっと曲がるところはこんな感じ。


また、道なりに下ります。
でも、小さな分岐が数カ所あります。
下から登ってきたときは、迷い込まないように。


バイクを駐めた分岐に帰ってきました。

この林道を登る方が正解だと思うのですが、欠点もあります。
分岐がいくつもあることと、少し遠回りになることです。
どちらに進んでも、案内看板はひとつもありません。
地図とGPSをにらめっこして進むしか、たどり着く方法がありません。
スマホのGPS機能では、現在地をロストする可能性もあります。
深い谷と森の木々に遮られ、GPS衛星からの電波を拾えなくなるからです。
くれぐれも気をつけて入山して下さい。

ひとりごと

二之森へ行った日の1週間ほど前、上総の道を一度、下見しました。
伊台や五明の道はバイクで結構、走り回っていますが、さすがにこの道は初めてでした。
二之森への道を正確に把握する前だったので、の分岐には気づきましたが、スルーして奥へと進みました。

この日は西条、今治と巡って買い物などした帰りで、すでに夕暮れ間近な時間でした。
日没まで時間がないなかの、ちょっと慌ただしい下見でした。

上総町には、二之森の他に、「重松城」と云う城跡もあります。
上総の集落から見て北東方向にあるお山の頂上にあるらしいです。
地形図上では、林道の奥に山道があるように描かれています。
けれど、Googleマップの航空写真を見る限り、林道も山道も見当たりません。
重松城のあるお山の北側に、いまも生きている林道がありますが、山頂まではちょっと遠いかな。
夏は難しいので、冬枯れた時期なら、探検できるかな。
イノシシとおサルさんには、充分注意しながらになると思いますが。

重松城への道は見つからなかったけど、そのまま、車道をさらに奥へ、北上しました。
次の目的地は、昔から気になっていた地、「梅木」です。
地図でこの辺りを見ると、山の中に「梅木町」と云う地名があります。
上総町と、高縄山に行く途中にある九川町と、五明の奥にある恩地町・柳谷町に挟まれた集落です。
2008年の住宅地図には、名前のある家、住民がいらっしゃる家は1戸だけしか登録されていませんでした。
いまはどうなんだろう?
もしかすると、もう誰も住んでいないのかも。
だとしたら、松山で、いや、愛媛県でも、住民ゼロの町は、梅木だけかも。

歴史的には、1650年頃に書かれた「慶安郷村帳」に「村高24石」と記されています。
また、明治11年(1878)の「風早郡地誌」を見ると、「戸数26、人口107」と書かれています。
その後、明治の中頃に起きた火事で、約半数の家屋が焼失したそうです。
昭和40年頃までは10戸あったようですが、昭和46年には1戸だけとなってしまったそうです。
その1戸が、2008年の住宅地図に載っていたお宅です。

お山の暮らしは不便だし、梅木の産物だった薪や竹の需要が激減。
交通の便がよくなって松山の街もそんなに遠く感じなくなったり…。
集落を離れる人、集落に戻らない人ばかりになってしまったんでしょうね。

さて、上総を過ぎると、道はさらに狭くなったうえに、アスファルトの上にはコケや落ち葉や枯れ枝が覆っていました。
気を抜くとスリップしそうでした。
道の奥に誰か住んでいたり、山仕事などが行われていたら、路上にクルマの轍が残ります。
でも、訪問時は、はっきりとした轍がありませんでした。
大きめの枝も道に横たわっていたりしました。
誰も片付けてないところを見ると、梅木には、もう誰も住んでいないのかも。
もしくは、しばらく、帰ってこられてないのかも。
そんな雰囲気でしたから、夕暮れ近付いて薄暗くなりつつ山道は、なんとなく、心地悪い。
こんな場所でエンストとかしたら…、泣いちゃうわ。

県道から2.5kmほどのところに、小さなお社がありました。
柱や壁の木材が日焼けやくすみがあまりありませんでした。
深い山のなかにあるにしては真新しさのあるお社でした。
おまけに、屋根の下にぶら下がる裸電球がひとつ、光りを放っていました。
明暗センサーでも付いているのでしょう。
確かに、センサーで明かりが付くぐらい、暗くなっていました。
日没時間にはまだ間があったけど、深い山の中は影しかなく、頭上の夕焼けた雲だけが唯一の明かりでした。
探検もここまで、時間切れです。
民家はもう少し奥、すぐ近くまで来ていました。
でも、暗がりの怖さに負けてあきらめました。
来た道を急いで帰りました。

それから1週間、地形図やら、住宅地図やらを何度も見返し、二之森への道を確かめました。
梅木に行ったときの光景を思い出しながら、シミュレーションを繰り返しました。
シミュレーションしてたときは、林道を行くつもりでいました。
あんな直登なんて、考えてませんでした。
どの地図にも道は書いてなかったし。

なのに、当日は林道に行かず、直登してしまいました。
不思議と行けそうな気がしたからです。
いや、行けたら面白いだろうなぁ、新道発見!って感じで、遊び心が過ぎたかも。
そんな風に、身勝手に進んだ挙げ句に遭難って起きるんだろう。
夏だったら、草が生い茂って邪魔されて、きっと、引き返したと思う。
行けちゃったのがよくなかった。
よくなかったけど、山頂まで行けちゃった。

曲輪の跡とか、南側にはなかったです。
山頂にも、石積みとか、残ってませんでした。
石や岩は散らばってたけど。
でも、昔は石塔に使われたんじゃないかって感じの石がもっと転がっていたそうです。
その石は、「西の森」(場所はよく分からない)ってところに移動したらしいです。

いろんな資料に、ここが城跡だって載っています。
でも、誰がどうやって調べたんだろう?
教育委員会が出してる「愛媛県中世城館跡 分布調査報告書」を見ても、文献の欄は空白です。
伝説的には、河野氏のお城だったんじゃないかって話があります。
でも、河野氏のお城があった高縄山の麓だから、そういう話になった気もしないでもないです。
縄張りの規模は、一番長いところで55m、短いところで20mと記録されています。
いつ、誰が築城したのか、分からないことだらけです。

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