へ行こう!
二之森 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
①国道317号線。
石手川ダム、ダム湖を通り過ぎると間もなく現れる日浦トンネル。
トンネルには入らず、左の旧道へ。
旧道に入ってすぐ左(北側)を見ると、目指す二之森が見えてます。
写真中央の三角お山の一番高いところが山頂です。
旧道沿いには、トンネル開通前からあったー
「日浦地区案内図」
②二之森の登山口のある上総地区への入口にはー
いまはもう廃線の河中線「上総橋」バス停がありました。
バス停向かいにある上総橋を渡ります。
イノシシマークが目印。
橋を渡った反対側はー
イノシシにおサルさんが乗ってます。
橋を渡ったら右折し、車道を上ります。
1.5車線の狭い道です。
尾根を回り込むようにして上り進むとー
③上総集落のある谷へ。
右は集落内に入る道。
お山は左の道を進みます。
あ、ちなみに「上総」は、地元で者「かんさ」って呼ぶこともあるそうです。
松山市役所的には「かずさ」ですが。
家が数軒と周囲に段々畑。
廃屋も多くなってしまいました。
④道路の右下に神社があります。
河内神社です。
河内神社
昔、梅木町と上総町の中間辺り「古宮」というところにあった両部落共同の氏神「河内八社大明神」を二つに分け、それぞれの部落でお祭りしたことに始まると伝えられている。
創建時期は不詳であるが、ご神体に寬成10年(1798年)と記されており、今から約210年以上前のことと考えられる。
河内神社の建つ場所は「的場」という地名が付けられている。
その昔、ここで悪疫退散や五穀豊穣を祈り、弓を射る神事(弓祈祷)が行われていたと伝えられている。
明治42年(1909年)、藤野町「天一神社」に併合されるも、今まで上総地区の鎮守として、ここに住んでいる人々やかつて住んでいた人々によって大切にお祭りされている。
境内には、三輪田米山書の「戦捷記念」の石碑が建つ。
平成26年2月 上総町内会・五明地区まちづくり協議会
社殿。
お山歩の無事をお願い、合掌。
⑤集落で一番高いところにある家が真横に見える辺りにある丁字路を左へ。
丁字路はこんな、くぃっとUターンするようなカーブ。
ぐぃーんと上るとー
⑥光が差す尾根の上に出ます。
こんな風に開けています。
写真左に真新しいお堂があります。
二之森は右の簡易舗装じゃない道を進みます。
その前に、お堂をちらっと見学。
「上総地蔵堂」だそうです。
点在していたお地蔵様を、文字通り、一堂に会したのかな。
ちなみに、お堂の後ろは「柴竹山」と云います。
お堂の横の道を進んだ先のピークは「池ノ本山」。
どちらも、明治初期の地図にしか登場しない山名です。
二之森へは、右にある二つの道のうち、舗装されていない道を進みます。
簡易舗装された道は山上にある畑に行く農道です。
⑦谷に入ると、簡易舗装になります。
古いのでガタガタですが。
よそ者が入りづらいように、入口は舗装してないのかな。
右上は竹林が伐採され、明るい。
けど、谷は薄暗い。
路面には落ち葉とか、タイヤが滑ります。
⑧谷の分かれ道にある登山口に到着です。
さぁ、どうしようポイント。
家で予習してきたときは、右へー
谷を北上する道を進むって決めていました。
実際、こちらへ進むのが楽ですし、正解のルートです。
でも、今日はなぜか、反対を選択してしまいました。
左に別れた、怪しい道になぜか惹かれてしまいました。
この道のどこが、山頂まで続いてると思ったのか…。
いまとなっては分かりません。
朽ちた倒木もあるしー
路肩、崩れてるし。
でも、「古道」に見えてた…。
きっと、夏草ボーボーだったら、行かなかったはず。
陽が差す明るい場所に近付きました。
⑨南斜面に出ました。
ちょっとした平らかな場所です。
城跡の曲輪跡のようでもあるし、でも、畑として開墾されただけかも。
果樹園とか、ミツマタの畑とか。
さてと、周囲を探索。
でも、道はここで途切れていました。
普段なら引き返す場面。
とりあえず、地図とGPSで確認したら、山頂との標高差が70mほど。
まぁまぁあるけど、なぜか行ける気がしてた。
なので、ついー
見上げてしまった…。
いまの季節なら、行けるかも…。
で、道なき斜面を直登してみました。
もう一度云っておきますが、このルートはお勧めしません。
あとで紹介する林道ルートが正解です。
⑩写真で見るより急な斜面です。
ふんわり溜まった落ち葉や腐葉土で踏ん張れなくて、ずるずる滑ります。
そこに伐採放置された丸太や灌木が邪魔してきます。
三歩進んで二歩下がるほどじゃないけど。
そもそも、うちのサイトは、道のない直登ルートは避けてきたんだけど。
てなことで、山頂まで15分くらいかかりました。
この斜面に城跡っぽい地形は一切ありませんでした。
ちょっと期待して登ってみた部分があったのに、残念。
⑪急斜面が終わり、山頂の南端に着きました。
標高は450mほど。
二之森の山頂部分は南北に長い楕円形です。
でも、城跡ながら、最後まで平坦な場所はありませんでした。
北に向かってまだ微妙に傾斜し続けます。
⑫地形図上に471mの標高点が打たれている、二之森山頂に到着しました。
最高地点に育つ木。
この山頂について、松山市埋蔵文化財包蔵地図を見ると、
「ニ之森(ふたつ森)城跡 城館跡 中世」と記載されています。
明治期の地図『風早郡地図 地誌付』には、
「二ッ森山」とあります。
愛媛県教育委員会発刊『愛媛県中世城館跡』のニ之森城は、
縄張り規模 55×22mとありますが、詳細はありません。
石垣、いや、石積みに使われていたような岩がごろごろ。
自然に露頭した岩っぽくはないです。
やっぱり、山城で使われてたのかな。
曲輪の跡とか、いまいち分からないまま、下山に取りかかりました。
と云うわけで、これから下るルートが正解のルートです。
まぁ、山頂からしばらくは道らしい道はないんだけど。
ちょっと下ったところから振り返って撮った山頂部。
以降、下りながら撮った、下向きの写真ばかりです。
登り目線の写真が少ないです、ごめんなさい。
尾根っぽい部分を北へ、下ります。
またちょっと山頂方向を振り返って。
⑬尾根に沿って下るとー
写真中央の木の回りが少し平らな場所になってました。
曲輪の跡っぽいです。
⑭もう少し下ったところにも細長い平らな場所。
ここも曲輪っぽく見えました。
下から登ってきた場合は、ここからは尾根地形だけが頼りになります。
そこから、細い平地は道っぽくなって北へ延びています。
道は少し尾根から外れますがー
また尾根と合流。
山頂方向を振り返ると、こんな感じ。
⑮そしてまた、曲輪っぽい平地。
尾根に沿って林の中へ。
道はやがてー
⑯二股に分かれます。
尾根に沿って行く道と、右下に下る道のふたつに別れます。
右下に下る道を進みます。
山頂方面を振り返ると、こんな感じです。
⑰カーブした林道と出会いました。
林道を右にたどり下れば、⑧の登山口へ降りられます。
林道から下ってきた道を振り返ると、こんな感じ。
案内看板とかはまったくありません。
なので、GPSなどで現在地を把握していないと、通り過ぎちゃうかも。
あとは林道をたどるだけ。
⑱谷川に沿って直進する林道と合流し、右にくぃっと曲がります。
下から登ってきたときは、間違って直進しないように。
くぃっと曲がるところはこんな感じ。
また、道なりに下ります。
でも、小さな分岐が数カ所あります。
下から登ってきたときは、迷い込まないように。
⑧バイクを駐めた分岐に帰ってきました。
この林道を登る方が正解だと思うのですが、欠点もあります。
分岐がいくつもあることと、少し遠回りになることです。
どちらに進んでも、案内看板はひとつもありません。
地図とGPSをにらめっこして進むしか、たどり着く方法がありません。
スマホのGPS機能では、現在地をロストする可能性もあります。
深い谷と森の木々に遮られ、GPS衛星からの電波を拾えなくなるからです。
くれぐれも気をつけて入山して下さい。
ひとりごと | ||
二之森へ行った日の1週間ほど前、上総の道を一度、下見しました。 この日は西条、今治と巡って買い物などした帰りで、すでに夕暮れ間近な時間でした。 上総町には、二之森の他に、「重松城」と云う城跡もあります。 重松城への道は見つからなかったけど、そのまま、車道をさらに奥へ、北上しました。 歴史的には、1650年頃に書かれた「慶安郷村帳」に「村高24石」と記されています。 お山の暮らしは不便だし、梅木の産物だった薪や竹の需要が激減。 さて、上総を過ぎると、道はさらに狭くなったうえに、アスファルトの上にはコケや落ち葉や枯れ枝が覆っていました。 県道から2.5kmほどのところに、小さなお社がありました。 それから1週間、地形図やら、住宅地図やらを何度も見返し、二之森への道を確かめました。 なのに、当日は林道に行かず、直登してしまいました。 曲輪の跡とか、南側にはなかったです。 いろんな資料に、ここが城跡だって載っています。 |
||