へ行こう!
摠見寺跡へ下る | |||||||||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦ | |||||||||||||||||||||
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①主郭から下山し、伝織田信忠邸跡まで降りてきました。
左は大手道を上がってきた道。
下山は右へ曲がります。
西へ。
天主の余韻を噛みしめながら、とことこ。
ゆるい石段が断続的に現れます。
見学ルート、最後の上り石段。
石段の終わりになにかある気配。
②
摠見寺は、安土城築城開始後に建立されました。
本堂、仁王門、三重塔、拝殿、鎮守社、鐘楼堂、
境内堂塔のほぼすべてを近隣から移築して建立したようで、
わずか4、5年で建設されました。
最初の住職は
信長が小牧城にいた頃からの知り合い?で、安土に連れてきたんだとか。
尭照は真言宗の僧侶でした。
創建当時の摠見寺は真言宗だったことになります。
摠見寺跡の解説板。
摠見寺跡 |
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摠見寺は、織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院です。 |
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上記にもありますが、『信長公記』に、
正月朔日、隣国の大名・小名御連枝の御衆、各在安土候て、御出仕あり。
百々の橋より惣見寺へ御上りなされ
とあります。
客人らは、南西隅の百々橋口から摠見寺を通って入城したようです。
大手道は通らなかったみたい。
本堂跡。
グリーンシーズン。
安土城炎上時は大丈夫でした。
信長の菩提寺として寺領を安堵され、年忌法要を営むなど、
豊臣、徳川政権を通して加護を受けてきました。
全盛期には、本堂を始め22棟の堂塔が軒を連ねていた そうです。
でも、江戸時代の嘉永7年(1854)11月16日の失火で丸焼けに。
同じ年に、いまもある、大手道脇に仮の本堂を建てました。
テーブルセットがある庫裏跡からはいい眺め。
琵琶湖最大の内湖の「西の湖」。
日本国内で9番目のラムサール条約湿地となった琵琶湖にプラスする形で、
平成20年(2008) 、西の湖が拡大登録されました。
近畿地方最大級の109ヘクタールものヨシ原があるそうです。
奥のお山は比叡山や京都の大原や貴船の山山。
一段降りた場所に建つ三重塔。
重要文化財に指定されています。
江戸時代の火災でも燃えませんでした。
棟柱に「享徳三年建立、天文二十四年修理」って墨書きがあったそうで、
享徳3年(1454) の建立と云うことが分かっています。
元は現在の甲賀市石部町の長寿寺に建っていたもののようです。
ちょっと急な石段で下山。
石の表面がつるつるで、滑って尻餅つきました (^_^;)
③石段の途中にある仁王門。
重要文化財に指定されています。
こちらも安土城や江戸時代の火災でも燃えませんでした。
棟木に「元亀二年七月甲賀武士山中俊好建立」とあります。
元亀2年は1571年。
下から。
応仁元年(1467)作製の仁王様、阿形ー
吽形。
まだまだ直降するよ。
仁王門を振り返って。
④急な石段終わり。
左へターン。
下に見えるのは、石部神社。
見学ルートからは行けません。
石畳も終わり。
⑤林の中をゆっくり下ります。
水たまり避けの木の板。
⑥この辺りはただの山道です。
まぁまぁ長い、なにもない区間。
⑦なんか、広いところに出た…。
と思ったら、伝羽柴秀吉邸跡でした。
⑧大手道に出て受付を通るとー
安土山お山歩終了。
以下、おまけ。
⑨帰りはまた牡丹雪がめっちゃ降ってきました。
「安土町文芸の郷」 にも行きたかったけど、くじけました。
駅に向かってただただ自転車漕ぎ漕ぎ。
防水機能のない上着は、濡れてぐっしょり。
風邪ひく寸前でー
安土駅に着いたらー
晴れてきた…。
ホームから見える繖山。
1時間に2本しか来ない列車を待って、待ちわびて。
京都へと帰りました。
京都駅。
安土じゃなにも食べられなかったので、
駅そばでようやく空腹を満たせました。
京都駅のコンコース。
駅前に出ると、正面に京都タワー。
バス移動してー
八坂神社へ。
この頃はよく、東山の方へ行ってました。
八坂神社の奥、公園にある坂本龍馬と中岡慎太郎の像。
八坂から歩いて維新の道の坂の上にある、
京都霊山護國神社へ。
坂本龍馬のお墓参り。
龍馬と中岡の墓石が並んでます。
お墓の前からの眺め。
二寧坂を登りー
産寧坂を上がりー
清水神社へ。
舞台。
音羽の滝。
舞台造りを下から。
四条河原町に戻りー
龍馬と中岡が暗殺された地へ。
別の日に安土を訪ねたときはー
大阪城によって帰りました。
城内にある大阪城豊國神社。
豊臣秀吉の像。
前後するけど、ついでに、安土の直前に行ったー
彦根城。
彦根城と云えばー
ひこにゃん!
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
ひとりごと | ||
天主からの帰路は、摠見寺跡がメインです。 大手道にある摠見寺は、あくまで仮本殿です。 信長は、比叡山の焼き討ちや石山本願寺との対立など、仏教勢力への弾圧により、無神論者に見られがちです。 さて、安土城は歴史的にも早くに登場した総石垣造りのお城でした。 戦国時代初期の城砦は、土手を盛り上げた造りが一般的でした。 信長は西洋甲冑すら、いいと思えば躊躇なく着こなしました。 あと、信長はホントに天下統一するつもりだったのかな、と思うことがあります。 さてさて。 もうひとつ、余談。 でも、琵琶湖は意外と水難事故も多い湖です。 信長には、「急がば回れ」は通じなかったかもね。 と云うわけで、安土山のお山歩終了。 駅までの帰路。 いまはあまり行かなくなったけど、昔は京都に行くと大抵、東山周辺をぶらっとしてました。 次に安土行ったときは、彦根城からの帰りでした。 安土は愛媛からだと随分遠くて、日帰りで行けるお山じゃありません。 |
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