安土城の安土山
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摠見寺跡へ下る
距離 約km
標高差 約m
徒歩
下記写真の場所
危険・行き止まり


主郭から下山し、伝織田信忠邸跡まで降りてきました。
左は大手道を上がってきた道。
下山は右へ曲がります。


西へ。
天主の余韻を噛みしめながら、とことこ。


ゆるい石段が断続的に現れます。


見学ルート、最後の上り石段。
石段の終わりになにかある気配。



摠見寺(そうけんじ)跡です。

摠見寺は、安土城築城開始後に建立されました。
本堂、仁王門、三重塔、拝殿、鎮守社、鐘楼堂、
境内堂塔のほぼすべてを近隣から移築して建立したようで、
わずか4、5年で建設されました。
最初の住職は尭照(ぎょうしょう)法印 。
信長が小牧城にいた頃からの知り合い?で、安土に連れてきたんだとか。
尭照は真言宗の僧侶でした。
創建当時の摠見寺は真言宗だったことになります。

  

摠見寺跡の解説板。

摠見寺跡

摠見寺は、織田信長によって安土城内に創建された本格的な寺院です。
天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。
本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼をまぬがれることができましたが、江戸時代末期の嘉永7年(1854)に惜しくも伽藍の中枢部を焼失してしまいました。
その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺地を移し、現在に至るまで法灯を守り続けています。

平成6年度に発掘調査を行った結果、旧境内地の全域から時代を異にする多くの建物跡が発見されました。
南面して建てられた建立当初の伽藍配置は、密教本堂形式の本堂を中心に、その前方両脇に三重塔と鐘楼を配置した中世密教寺院特有のものでした。
本堂の脇には、鎮守社と拝殿が建てられています。
境内の南方は急傾斜地となっているため、参道は西の二王門表門から本堂前を通り、東の裏門に通じています。
建立に当たって、これらの建物の多くが甲賀郡を中心に近江国各地から移築されたことが、種々の記録から分かります。

その後、豊臣秀頼によって本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と庫裏等が増築されました。
江戸時代になると、伽藍の東側に長屋と浴室・木小屋・土蔵・木蔵など、寺の生活を支える多くの建物が建てられました。
右の『近江名所図会』に描かれた様子を重ね合わせると、江戸時代を通じて活動を続ける見寺の姿がうかがえます。

上記にもありますが、『信長公記』に、

正月朔日、隣国の大名・小名御連枝の御衆、各在安土候て、御出仕あり。
百々の橋より惣見寺へ御上りなされ

とあります。
客人らは、南西隅の百々橋口から摠見寺を通って入城したようです。
大手道は通らなかったみたい。

本堂跡。


グリーンシーズン。

安土城炎上時は大丈夫でした。
信長の菩提寺として寺領を安堵され、年忌法要を営むなど、
豊臣、徳川政権を通して加護を受けてきました。
全盛期には、本堂を始め22棟の堂塔が軒を連ねていた そうです。
でも、江戸時代の嘉永7年(1854)11月16日の失火で丸焼けに。
同じ年に、いまもある、大手道脇に仮の本堂を建てました。


テーブルセットがある庫裏跡からはいい眺め。

琵琶湖最大の内湖の「西の湖」。
日本国内で9番目のラムサール条約湿地となった琵琶湖にプラスする形で、
平成20年(2008) 、西の湖が拡大登録されました。
近畿地方最大級の109ヘクタールものヨシ原があるそうです。


奥のお山は比叡山や京都の大原や貴船の山山。

一段降りた場所に建つ三重塔。
重要文化財に指定されています。


江戸時代の火災でも燃えませんでした。


棟柱に「享徳三年建立、天文二十四年修理」って墨書きがあったそうで、
享徳3年(1454) の建立と云うことが分かっています。
元は現在の甲賀市石部町の長寿寺に建っていたもののようです。


ちょっと急な石段で下山。
石の表面がつるつるで、滑って尻餅つきました (^_^;)




石段の途中にある仁王門。
重要文化財に指定されています。
こちらも安土城や江戸時代の火災でも燃えませんでした。
棟木に「元亀二年七月甲賀武士山中俊好建立」とあります。
元亀2年は1571年。


下から。


応仁元年(1467)作製の仁王様、阿形ー


吽形。


まだまだ直降するよ。


仁王門を振り返って。




急な石段終わり。
左へターン。

下に見えるのは、石部神社。
見学ルートからは行けません。

石畳も終わり。




林の中をゆっくり下ります。


水たまり避けの木の板。



この辺りはただの山道です。


まぁまぁ長い、なにもない区間。




なんか、広いところに出た…。

と思ったら、伝羽柴秀吉邸跡でした。




大手道に出て受付を通るとー


安土山お山歩終了。


以下、おまけ。



帰りはまた牡丹雪がめっちゃ降ってきました。
「安土町文芸の郷」 にも行きたかったけど、くじけました。

駅に向かってただただ自転車漕ぎ漕ぎ。
防水機能のない上着は、濡れてぐっしょり。
風邪ひく寸前でー


安土駅に着いたらー

晴れてきた…。

ホームから見える繖山。

1時間に2本しか来ない列車を待って、待ちわびて。
京都へと帰りました。

京都駅。


安土じゃなにも食べられなかったので、
駅そばでようやく空腹を満たせました。


京都駅のコンコース。


駅前に出ると、正面に京都タワー。

バス移動してー

八坂神社へ。

この頃はよく、東山の方へ行ってました。


八坂神社の奥、公園にある坂本龍馬と中岡慎太郎の像。

八坂から歩いて維新の道の坂の上にある、
京都霊山護國神社へ。

坂本龍馬のお墓参り。


龍馬と中岡の墓石が並んでます。

お墓の前からの眺め。


二寧坂を登りー


産寧坂を上がりー

清水神社へ。

舞台。


音羽の滝。


舞台造りを下から。


四条河原町に戻りー


龍馬と中岡が暗殺された地へ。

別の日に安土を訪ねたときはー


大阪城によって帰りました。


城内にある大阪城豊國神社。


豊臣秀吉の像。

前後するけど、ついでに、安土の直前に行ったー

彦根城。


彦根城と云えばー


ひこにゃん!


最後までご覧いただき、ありがとうございました。

ひとりごと

天主からの帰路は、摠見寺跡がメインです。

大手道にある摠見寺は、あくまで仮本殿です。
いずれは、この跡地に本殿を再建したいみたいです。

信長は、比叡山の焼き討ちや石山本願寺との対立など、仏教勢力への弾圧により、無神論者に見られがちです。
けれど、若い頃から熱田神宮で戦勝祈願を行ったり、結構、神頼みをしてます。
そもそも、無神論者が安土城に摠見寺を建立したりするでしょうか。
信長を「迷信的慣習の軽蔑者」呼んだのは、ルイス・フロイスです。
そして、比叡山の焼き討ちが決定打となり、後世の人が無神論者に見られるようになったのでしょう。
けれど、当時の比叡山や石山本願寺が、戦国大名並みの武力を備えた存在だったことは有名です。
遡ること鎌倉時代も、幕府軍に対抗するため、官軍が僧兵の力を頼んだ記録が残っています。
そもそも、僧兵は、乱れた世から寺社を護るための自衛の武力集団でした。
著名な大きな寺社は大抵、多くの僧兵を抱えていました。
松山の四国霊場47番札所・八坂寺だって、かつては多数の僧兵を擁していました。
いまはこぢんまりとしてるけど、かつてはヤバかったのです。
なので、寺社同士すら、焼き討ちし合ったりしてました。
比叡山延暦寺と園城寺(三井寺)の焼き討ちしあったことは有名です。
そんな比叡山や本願寺が敵対する勢力と結びついてたので、信長は頭が痛かったでしょう。
一応、信長は、焼き討ちする前に警告しています。
比叡山側も警告を無視していたわけじゃなく、多数の金と共に攻撃の中止を信長に嘆願しました。
でも、武力の無力化や信長陣営に下ることを良しとしなかったため、焼き討ちは実行されました。
ちなみに、発掘調査により、焼失が指摘できる建物は、根本中堂と大講堂のみでした。
「寺社堂塔500余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶男女3000人が一人一人首を斬られて、全山が火の海になった」
と云うのは、どうも誇張が過ぎるようです。
比叡山の軍事力は壊滅しました。
けれど、ほかの寺社は、豊臣秀吉による刀狩まで、武力、軍事力を維持し続けました。

さて、安土城は歴史的にも早くに登場した総石垣造りのお城でした。
後世のお城と比べれば小規模な石垣ですが。
それでもあの時代に10mを越える高石垣に建つ、七層もの大天主のお城の登場。
人人の度肝を抜くには充分過ぎたでしょう。

戦国時代初期の城砦は、土手を盛り上げた造りが一般的でした。
土手は土手で、ずるずる滑って登りづらかったりして、一概に防御力が低いとは云えません。
信長は、小牧山城や岐阜城でも、石垣を用いていました。
安土城が総石垣造りになったのは、巨大な高層建築を載せたかったためでしょう。
あと、隣の繖山にあった、佐々木六角氏が築いた観音寺城は、安土築城の参考にとてもなったらしいです。
観音寺城は総石垣で築かれた、国内屈指の大規模な山城でした。
いまでは、日本5大山城(中世山城郭で)のひとつとして有名です。
信長に支城を奪われた六角氏は、観音寺城を無血開城して去って行きました。
信長軍がしばしの間、観音寺城を使用していた形跡が見つかっています。
その間に、石垣が多用された姿を見て、新たに築く城のヒントを得た可能性はあるでしょう。

信長は西洋甲冑すら、いいと思えば躊躇なく着こなしました。
(家康も、関ヶ原時の甲冑は西洋甲冑の構造、材質を取り入れたものでした。)
信長があまりにメジャーになりすぎたため、誰かのパクリであっても、信長が初めて、みたいな誤解も多いです。
新しもの好きだった信長。
でも、自分なりに取り込み、活用できる能力が高くないと、ただのお上りさん。
例えば、ほとんどの大名が取り入れた火縄銃。
信長は、連射性能の低さと云う欠点を見抜き、交代して打ち続ける戦術を編み出しました。
長篠の戦いの三段撃ちは、ちょっと怪しいですが、三つの部隊が交代して撃ち続けた可能性はあります。

あと、信長はホントに天下統一するつもりだったのかな、と思うことがあります。
天下統一するつもりにしては、時間をかけすぎてる気がします。
どこか攻略するにしても、結構な何年かけてます。
相手があることですから、年単位、必要なことは分かります。
でも、本能寺の変に至るまでに、結構な年数かかって、結局、家督すら譲ってます。
確かに、「天下布武」という言葉は使ってました。
当時の「天下」は、京都、将軍や天皇を中心とした近畿一帯。
それも、自分のためではなく、将軍や天皇のために占領してやるぞって感じ。
まぁ、後年、将軍を自ら追い出してしまったので、領土拡大が自分たちのためになってしまったんだけど。

さてさて。

もうひとつ、余談。
安土登城築城当時、安土山は琵琶湖に面していました。
琵琶湖沿岸には、秀吉の長浜城、光秀の坂本城、対岸の大溝城には織田信澄がそれぞれ居城していました。
秀吉や光秀ら家臣らは船で安土に向かったこともあったでしょう。
京から安土へは、湖上を船で渡った方が速いです。
堺の豪商・津田宗及も坂本城から御座船で安土に向かった記録が残っています。
信長が安土を選んだ理由のひとつは、湖上航路の便利さもあったでしょう。

でも、琵琶湖は意外と水難事故も多い湖です。
有名なことわざ、「急がば回れ」が生まれたのも、この琵琶湖です。
語源は、室町時代の連歌師・宗長の歌、
「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」。
「矢橋の船」は、滋賀県草津市矢橋港と大津市石場港を結んでいた湖上水運です。
琵琶湖を横断する航路は、「瀬田の長橋」経由の陸路よりも近くて速い。
けれど、比叡山からの突風「比叡おろし」が危険で事故も多かったと云います。
だから、遠回りでも安全な陸路を行った方がいいよ、「急がば回れ」と歌われたのでした。

信長には、「急がば回れ」は通じなかったかもね。

と云うわけで、安土山のお山歩終了。

駅までの帰路。
自転車に乗った途端、一時やんでた雪が勢いを増して降り始めました。
雪は大好きだけど、服がびしょびしょになるのは、ちょっと勘弁でした。
結局、京都に着いても乾くこともなく。
京都は青空がのぞくいい天気だったので助かったけど。

いまはあまり行かなくなったけど、昔は京都に行くと大抵、東山周辺をぶらっとしてました。
八坂寺行って、坂本龍馬のお墓のある霊山護國神社行って、清水寺行って帰る、みたいな。
二条城とか京都御所なんて行くのなんて、最近になって。
この年は、この夜のフェリーで帰郷しました。

次に安土行ったときは、彦根城からの帰りでした。
彦根も列車でスルーしてばっかりで、降りたことがありませんでした。
彦根城もいいお城でした。
この日は彦根城見て、安土城見て、最後に大阪城に寄ってホテルに戻りました。

安土は愛媛からだと随分遠くて、日帰りで行けるお山じゃありません。
大阪・京都からでもちょっと遠い。
関西にはもっとメジャーなお山がたくさんあります。
六甲とか、伊吹山とか、京都トレイルとか。
だけど、お城に関しては、安土城は超メジャー級。
天守閣や櫓などの建物が残ってないのが残念ですが。
ささやかなお山で(入山料も取られるけど)、おすすめです。

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