へ行こう!
大手道 | |||||||||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪ | |||||||||||||||||||||
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①入山には入山料が必要です。
以前の拝観受付は道の脇にありましたがー
いまは、道を塞ぐ形に受付が建っています。
安土山・安土城跡は摠見寺の所有地にあります。
この受付も摠見寺が設けています。
ちょっとした売店も兼ねてます。
入山料は、大人700円、小人200円 (2023年現在)。
夕方5時閉門。
午後遅くの訪問時は気をつけましょう。
大手門についての解説板。
特別史跡安土城跡の見学にかかる注意事項 |
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特別史跡安土城跡は、そのほとんどが摠見寺の所有地内にあります。 |
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滋賀県教育委員会 |
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安土城を象徴する道一大手道 |
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目の前にまっすぐ延びている幅広い道が、安土城の大手道です。 |
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【見学ルート(ー)以外は公開されていませんので、ルートに従って見学して下さい。】 |
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では、石段を登って行きましょう。
解説にあった通り、道の左右には邸宅跡の石垣がずっと続いています。
とても幅のある、大勢でも通りやすい道。
安土城は戦に備えた城じゃないことが、この道だけでも分かります。
石仏なども石材として使われています。
この先も何体か、横たわっていました。
比叡山を焼き討ちした信長ならではの罰当たり…
と思いがちですが、「魂抜き」してから石材にしてるはず。
石垣に使われた石仏や墓石、五輪塔などを「転用石」と云います。
転用石は結構、いろんなお城でみられます。
例えば、明智光秀の福知山城には500個以上使われています。
大抵は、石材不足が原因だったりします。
近隣の寺社から奪ってくることで、勢いをそぎ、屈服させる狙いもありました。
また、穢れを転じてお守りとする考えもあったと思われます。
大手道跡の石仏 |
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この石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものです。 |
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滋賀県教育委員会 |
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②道の左側に、大きな敷地が拡がっています。
伝羽柴秀吉邸跡と伝わる場所です。
写真右側の高い石垣の上も秀吉に与えられた敷地です。
伝羽柴秀吉邸跡の解説板。
伝羽柴秀吉邸跡 |
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ここは、織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝える屋敷の跡です。 |
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櫓門跡の発掘調査 |
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伝羽柴秀吉邸跡の発掘調査は平成2年と4年に実施しました。 |
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石垣に沿って小路が上段に続いています。
上段には、寝起きする主殿・邸宅があったとみられています。
「← 上段秀吉邸に至る」
解説にあった幅2mは、ないかな。
石垣の奥を回り込んで上へ。
上段もとにかく広い。
ここがホントに秀吉に与えられたものだったら、
信長からの信任がとても厚かったことがうかがえます。
とは云え、信頼度は、天守に近い方が上です。
平地に住んでる家臣団に比べたら、まだいい方かなって感じ。
石段側から見た敷地。
伝羽柴秀吉邸主殿の解説板
伝羽柴秀吉主殿 |
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安土城が築かれた頃の武家住宅において、接客や主人の生活のために使われていた中心的な建物を主殿といいます。 |
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③秀吉邸の反対側にあるのが、伝前田利家邸跡。
すべてが明らかになっている秀吉邸に比べ、
利家邸の方は木木が多数に残されています。
伝前田利家邸跡 |
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ここは、織田信長の家臣であった前田利家が住んでいたと伝える屋敷の跡です。 |
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④前田邸の上には、摠見寺の仮本堂があります。
敷地は、徳川家康邸の跡地だったと伝わっています。
お寺の拝観は別料金。
上段には鐘楼があります。
大手道の直線はお寺のちょっと上まで。
振り返って。
⑤石段が左に曲がります。
少し登るとー
⑥右に曲がります。
森に向かって登る、登る。
また、石段に石仏。
魂抜きしてあっても踏まないように。
さらにひとつ。
お賽銭入れまで置かれてる。
⑦道幅が拡がり、左に曲がる、その角にー
伝武井
ってか、武井夕庵って誰?
信長の右筆=文官=事務官僚だったみたい。
元は美濃の斎藤道三に仕え、斎藤家滅亡後、信長に近侍したそう。
お茶にも精通していたそうです。
邸宅の位置が秀吉や利家より上にあります。
信長からの信頼がめっちゃ厚かったことが分かります。
そこから少し登るとー
上り坂が一息つきます。
平らな道を歩くとー
⑧再び、邸宅跡らしい場所。
石垣に沿って進むとー
そこは、下山ルートとの分岐の丁字路になっています。
写真左奥が下山ルート。
帰りはそっちへ向かいます。
写真中央が天守跡・山頂への道。
写真右が登ってきた道。
そして、この平らな場所はー
織田信忠邸跡。
織田信忠は、信長の長男で織田政権第2代当主。
幼名は「奇妙」。
初陣は、信長が浅井朝倉にリベンジを果たした北近江浅井攻め。
その後、石山本願寺との戦いや長篠の戦いでも活躍。
信長に先んじて甲斐に侵攻。
天目山の戦いで武田氏を滅亡させました。
大功をあげた信忠は、信長から後継者と認められました。
本能寺の変の際、信忠も入京していました。
本能寺に駆けつけようとしましたが、間に合いませんでした。
御所に籠城して明智軍を迎え撃ちましたが、
明智の兵数が圧倒的すぎて、結果、自害しました。
享年26。
信忠邸跡の奥の石段。
⑨霧も出て、神秘的な雰囲気に。
城跡と云うより、お寺の参道みたいに。
雪をかぶった針葉樹林も幻想的に。
⑩石段が一息つく踊り場のような場所はー
また邸宅跡です。
森蘭丸とー
織田信澄の。
森蘭丸は、信長の近習。
武将の側に仕え、諸事をこなす家臣のことです。
信長本人から召し抱えられたのは、天正5年(1577)。
本能寺の変のたった5年前。
なのに、意外と有名。
織田信澄の別名は、津田信澄。
織田信長の甥にあたります。
越前一向一揆征伐や石山本願寺との戦いにも従軍。
信長の周旋で明智光秀の娘と結婚しました。
そのことが後の彼の運命を決定づけました。
本能寺の変直後、光秀との共謀を疑われた信澄は、
信長の三男・信孝と丹羽長秀らに攻撃を受け、討ち死に。
首は、信孝の命令で堺の町外れにさらされたそうです。
信忠より、高い場所に邸宅を構えていたのは、
それだけ、信長に信用されていた証拠。
謀反なんてまったくの濡れ衣でした。
⑪蘭丸・信澄邸跡の少し上にある石垣。
ここは、黒金門跡です。
ここからいよいよ、安土城城郭の内部へと入っていきます。
黒金門跡 |
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安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。 |
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門内は、カクカクッと曲がる虎口になっています。
写真中央は二の丸の石垣。
その二の丸や天守、本丸は、写真右へ。
その前に、左の階段へ寄り道します。
ちなみに、冬に訪れたときは訪問し忘れてました。
10月はまだ草がぼーぼーです。
じっとしてるとヤブ蚊に食われそうな石段を登るとー
⑫石塔が4つ並んだ一画があります。
「織田信雄公四代供養塔」です。
右から、
宇陀松山藩初代藩主織田信雄(戒名:徳源院殿実巌常眞大居士)、寛永7年没、享年73歳。
4代織田信武(戒名:圓明院殿定岩宗恵大居士)、元禄7年没、享年40歳。
3代織田長頼(戒名:徳雲院殿回岩宗頂大居士)、元禄2年没、享年70歳。
2代織田高長(戒名:瑞泉院殿一岩宗徹大居士)、延宝2年没、享年85歳。
織田政権は本能寺の変後、秀吉に乗っ取られてしまいました。
最終的に生き残ったのは、信長の次男・信雄の家系だけでした。
関ヶ原の戦い後、信雄は家康から5万石を与えられました。
宇陀松山藩(奈良県宇陀市)の大名となりました。
でも、4代の頃、お家騒動が起き、信武は自死してしまいました。
信休が5代藩主として認められましたが、
丹波柏原藩(兵庫県丹波市柏原)に2万石で移封されました。
そしてそのまま、明治維新を迎えています。
二の丸へと向かいます。
踊り場をいくつか挟んだ緩やかな石段をー
二の丸の石垣に沿って反時計回りに登りー
⑬二の丸下の分岐。
写真右へ行くと本丸、天守。
またその前に、写真左の石段へ向かいます。
⑭石段を上がった先が二の丸跡になります。
長谷川秀一邸跡の平らな空間。
長谷川秀一は、信長の小姓としてキャリアをスタートしました。
目立った活躍は、安土城が完成して以降。
奉行衆として織田政権を支えました。
信長とのパイプ役を務めていたので、人脈が豊富だったようです。
本能寺の変のときは家康の饗応役として堺にいました。
変後、家康一行に同行、尾張熱田までの道案内を無事勤めました。
そのとき、豊富な人脈がとても役に立ったのでした。
その後、秀吉側の大名として武功を上げ続けましたが、
文禄の役で朝鮮に渡り、苦戦の最中、病死したそうです。
開けた空間の奥にー
これまでの石垣とは積み方が異なる石垣があります。
ここは、織田信長の本廟(霊廟)です。
本廟の中は立入禁止です。
外から覗くだけ。
お正月のすぐあとだったので、注連飾りがありました。
天正11年(1583)2月、羽柴秀吉によって建立されました。
ご存じの通り、本能寺の変直後、光秀らは必死で探しましたが、
信長の遺骨の一片すら発見できませんでした。
なので、信長の太刀や烏帽子、
ひとりごと | ||
雪が降りしきる中のお山歩となりました。 安土城が廃城になって以降、安土山を守ってきたのは、摠見寺です。 大手道を登り始めて最初にあるのが、秀吉の邸宅跡。 利家の邸宅跡は、ぱっと見、狭く見えたせいで、二度ともスルーしてしまいました。 さて、大手道のこと。 「信長公記」に (以下、現代語訳)、 「七月十五日、安土城の天主閣および惣見寺にたくさんの提灯を吊るさせ、また、お馬廻り衆を新道に配置し、または入り江に舟を浮かべさせて、それぞれに松明を灯させた。 とあります。 「いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、色とりどりの豪華な美しい提灯で上の天守を飾らせた」 戦に備えてかがり火を焚くことはあったでしょう。 安土城を建てた頃の信長は、周辺地域に脅威がまったくなかったわけではありません。 石段に埋め込まれた石仏も意味があったのかも。 人によっては罰当たりなこともしてた信長。 さてさて、最後になんですが。 |
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