安土城の安土山
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大手道
距離 約400m
標高差 約90m
徒歩
下記写真の場所
危険・行き止まり

入山には入山料が必要です。


以前の拝観受付は道の脇にありましたがー


いまは、道を塞ぐ形に受付が建っています。


安土山・安土城跡は摠見寺の所有地にあります。
この受付も摠見寺が設けています。
ちょっとした売店も兼ねてます。
入山料は、大人700円、小人200円 (2023年現在)。

夕方5時閉門。
午後遅くの訪問時は気をつけましょう。

  

大手門についての解説板。

特別史跡安土城跡の見学にかかる注意事項

特別史跡安土城跡は、そのほとんどが摠見寺の所有地内にあります。
摠見寺の格別のご理解により一般解放して頂いております。

今後永くこの史跡環境を守り育てるため、ここを見学される方は次の注意事項を守って下さい。

・寺の宗教活動の支障にならないよう静かに見学して下さい。
・特に拡声器の使用については、事前に許可を得たものに限ります。
・ハチ、ヘビ、鳥獣類、落石、倒木等に各自で注意してください。
・山林内は危険防止のため、立入禁止です。
・特別史跡内において、許可なくして営業行為や土石の移動、竹木の伐採等(現状変更)を行った場合は、文化財保護法により罰せられます。
・特別史跡内では取材および営業目的の撮影を行うには別途許可が必要です。
・特別史跡内で火気の使用は法律により禁じられています。
・犬のひもをはなさないで下さい。
・ゴミは各自お持ち帰り下さい。
・見学路には、急な石段や滑りやすい場所があります。充分足元に注意して歩いて下さい。
・これより山内には、便所や売店はありません。

滋賀県教育委員会
摠見寺

安土城を象徴する道一大手道

目の前にまっすぐ延びている幅広い道が、安土城の大手道です。
安土城の正面玄関である大手門から山頂部に築かれた天主・本丸に至る城内では最も重要な道です。
大手道は、その構造から、直線部分、横道・七曲がり状部分、主郭外周路部分の三つの部分によって構成されています。

大手門から山腹まで、約180mにわたって直線的に延びる部分の道幅は、約6mと広く、その両側に幅1~1.2mの石敷側溝があり、さらにその外側に高い石塁が築かれています。
道の東西には、複数の郭を雛壇状に配した伝羽柴秀吉邸跡・伝前田利家邸跡等の屋敷があり、これらは書院造りの主殿を中心に厩や隅櫓等、多くの建物で構成されています。
まさに、安土城の正面玄関を飾るにふさわしい堂々とした屋敷地と言えるでしょう。

山腹部分は、傾斜が最も急なところで、ジグザグに屈曲しながら延びています。
この付近は、踏石や縁石に石仏が多く使われている他、屈曲部分に平な踊り場を造ることなく、踏石列を扇状に展開させていることが特徴です。
伝武井夕庵邸跡の北東付近から大手道は東へ屈曲し、主郭部の外周を構成している高石垣の裾を巡り、本丸に直接通じる本丸裏門に至ります。
屈曲部分は幅4m程に狭まりますが、本丸裏門近くでは6mを超える広い道になります。

安土城の正面を通る下街道から見える直線的な大手道とその延長上に聳える天主は、街道を行き交う人々に信長の力を強く印象付けたことでしょう。

【見学ルート()以外は公開されていませんので、ルートに従って見学して下さい。】


では、石段を登って行きましょう。

解説にあった通り、道の左右には邸宅跡の石垣がずっと続いています。


とても幅のある、大勢でも通りやすい道。
安土城は戦に備えた城じゃないことが、この道だけでも分かります。


石仏なども石材として使われています。
この先も何体か、横たわっていました。

比叡山を焼き討ちした信長ならではの罰当たり…
と思いがちですが、「魂抜き」してから石材にしてるはず。

石垣に使われた石仏や墓石、五輪塔などを「転用石」と云います。
転用石は結構、いろんなお城でみられます。
例えば、明智光秀の福知山城には500個以上使われています。
大抵は、石材不足が原因だったりします。
近隣の寺社から奪ってくることで、勢いをそぎ、屈服させる狙いもありました。
また、穢れを転じてお守りとする考えもあったと思われます。

大手道跡の石仏

この石仏は、築城の際に大手道の石材として使われたものです。

城普請に使用する多くの石材は、近郊の山々から採取しましたが、石仏や墓石等も含まれていました。

出土した石仏等は、本来は信仰の対象となっていたものですが、築城の経緯を示すために発見当時の状態で保存しています。
趣旨をご理解の上、見学してください。

滋賀県教育委員会




道の左側に、大きな敷地が拡がっています。


伝羽柴秀吉邸跡と伝わる場所です。
写真右側の高い石垣の上も秀吉に与えられた敷地です。


伝羽柴秀吉邸跡の解説板。

  

伝羽柴秀吉邸跡

ここは、織田信長の家臣であった羽柴(豊臣)秀吉が住んでいたと伝える屋敷の跡です。
大手道に面したこの屋敷は、上下2段に別れた郭(造成された平地)で構成されています。
下段郭の入口となるこの場所には、壮大な櫓門が建っていました。
1階を門、2階を渡櫓とする櫓門は、近世の城郭に多く見られるものですが、秀吉邸の櫓門はその最古の例として貴重です。
門内の石段を上がると、馬6頭を飼うことのできる大きな厩が建っています。
武士が控える遠侍と呼ばれる部屋が設けられている厩は、武上の生活に欠かせない施設です。
下段郭には厩が1棟あるだけで、それ以外は広場となっています。
背面の石垣裾に設けられた幅2m程の石段は、上段郭の裏手に通じています。

上段郭はこの屋敷の主人が生活する場所です。
正面の入口は大手門に面して建てられた高麗門です。
その脇には重層の隅櫓が建ち、防備を固めています。
門を入ると右手に台所があり、さらに進むと主屋の玄関に達します。
玄関を入ると式台や侍の間があり、その奥に主人が常住する主殿が建っています。
さらにその奥には内台所や遠侍があります。
3棟の建物を接続したこの建物群の平面積は366㎡あり、この屋敷では最大の規模を持っています。

戦国の世が終わりを迎えようとする16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした伝羽柴秀吉邸跡の遺構は、当時の武士の生活をうかがい知ることのできる、誠に貴重なものといえます。

  

櫓門跡の発掘調査

伝羽柴秀吉邸跡の発掘調査は平成2年と4年に実施しました。
調査前は草木の生い茂った湿潤な斜面地でしたが、大手道に面した調査区からは門の礎石と考えられる大きな石や溝、階段を発見しました。
これらは厚さ数cmの表土の下から見つかりましたが、その保存状態は大変良好で今後の安土城跡の調査に大きな期待を抱かせることとなりました。

礎石は鏡柱を置く巨大な礎石や添柱用の小さな礎石など、大小あわせて9個発見しており、最大のものでは0.8m×1.4mの大きさがあります。
これらの礎石の配列と両側の石垣の様子から、この建物は脇戸村の櫓門であることがわかりました。

櫓門の内側には、屋敷に通じる石段とこれに伴う石線室の排水路があり、水路の縁石には石仏が使用されていました。
門の前では大手道から櫓門へ入るための橋を支えたと考えられる3本の長い花崗岩製の転用石を発見しました。

また、周辺からは櫓門の屋根を飾っていたと考えられる金箔軒平瓦や丸瓦の破片が出土しています。

石垣に沿って小路が上段に続いています。
上段には、寝起きする主殿・邸宅があったとみられています。


「← 上段秀吉邸に至る」


解説にあった幅2mは、ないかな。


石垣の奥を回り込んで上へ。

上段もとにかく広い。
ここがホントに秀吉に与えられたものだったら、
信長からの信任がとても厚かったことがうかがえます。

とは云え、信頼度は、天守に近い方が上です。
平地に住んでる家臣団に比べたら、まだいい方かなって感じ。

石段側から見た敷地。

  

伝羽柴秀吉邸主殿の解説板

  

伝羽柴秀吉主殿

安土城が築かれた頃の武家住宅において、接客や主人の生活のために使われていた中心的な建物を主殿といいます。
この屋敷では、主殿の手前に式台・遠侍、奥に内台所が接続して複雑な構成になっています。
主殿入口は、建物東部に設けられた玄関です。
「玄関」を入ると「式台」の間があり、ここで来客は送迎の挨拶を受けます。
その背後には、武士が控える「遠侍」の間が置かれています。
式台を左に進むと主殿に出ます。
畳を敷いた幅1間の廊下の西は、2間続きの座敷になっています。
西奥の部屋が床・棚を背に主人あるいは上客が着座する「上段の間」です。
上段の間南には主人が執務を行う「付書院」が付属しています。
南側の「広縁」は吹き放しで、その東端に「中門」が突出しています。
広縁の途中にある「車寄」は、もっとも大事な客一例えば秀吉邸を訪れた信長が直接上段の間に入るための入口で、上には立派な軒唐破風が架けられています。
主殿のさらに奥には、簡単な配膳を行う「内台所」や「遠侍」が接続しています。
皆様も往時の姿を思い浮かべながら、秀吉の来客になったつもりで、整備された礎石の間を歩いてみてはいかがでしょうか。

  

伝羽柴秀吉邸復元図



秀吉邸の反対側にあるのが、伝前田利家邸跡。
すべてが明らかになっている秀吉邸に比べ、
利家邸の方は木木が多数に残されています。

  

伝前田利家邸跡の解説板。

伝前田利家邸跡

ここは、織田信長の家臣であった前田利家が住んでいたと伝える屋敷の跡です。
大手道に面したこの屋敷は、向かいの伝羽柴秀吉邸とともに大手道正面の守りを固める重要な位置を占めています。
急な傾斜地を造成して造られた屋敷地は、数段の郭に分かれた複雑な構成となっています。
敷地の西南隅には大手道を防備する隅櫓が建っていたものと思われますが、後世に大きく破壊されたため詳細は不明です。
隅櫓の北には大手道に面して門が建てられていましたが、礎石が失われその形式は分かりません。
門を入ったこの場所は枡形と呼ばれる小さな広場となり、その東と北をL字型に多聞櫓が囲んでいます。
北方部分は上段郭から張り出した懸造り構造、東方部分は二階建てとし、その下階には長家門風の門が開いています。
この枡形から先は道が三方に分かれます。

右手の道は最下段の郭に通じています。
ここには馬三頭を飼うことのできる厩が建っていました。
この厩は、江戸時代初期に書かれた有名な大工技術書『匠明』に載っている「三間厩之図」と平面が一致する貴重な遺構です。
厩の脇を通り抜けると中段郭に通じる急な石階段があり、その先に奥座敷が建っていました。

正面と左手の石階段は、この屋敷地で最も広い中段郭に上るものです。
正面階段は正客のためのもので、左手階段は勝手口として使われたものでしょう。
前方と右手を多聞櫓で守られた左手階段の先には、木樋を備えた排水施設があります。
多聞櫓下段の右手の門を潜ると、寺の庫裏に似た大きな建物の前に出ます。
広い土間の台所と、田の字型に並ぶ四室の遠侍が一体となった建物です。
遠侍の東北隅から廊下が東に延びており、そこに当屋敷の中心殿舎が建っていたと思われますが、現在竹薮となっており調査が及んでいません。
さらにその東にある奥座敷は特異な平面を持つ書院造り建物です。
東南部に突出した中門を備えているものの、部屋が一列しかありません。
あるいは他所から移築されたもので、移築の際に狭い敷地に合わせて後半部の部屋を撤去したのかもしれません。
伝前田利家邸は、伝羽柴秀吉邸とほぼ共通した建物で構成されていますが、その配置には大きな相違が見られます。
向かい合うこの二軒の屋敷は、類例の少ない16世紀末の武家屋敷の様子を知る上で、たいへん貴重な遺構です。

  

2度の訪問とも、林の中には立ち入りませんでした。
なので、邸宅跡の大きさをイマイチ理解できずです。
次行ったときは、ちゃんと見学します。


前田邸の上には、摠見寺の仮本堂があります。
敷地は、徳川家康邸の跡地だったと伝わっています。


お寺の拝観は別料金。

上段には鐘楼があります。

大手道の直線はお寺のちょっと上まで。


振り返って。




石段が左に曲がります。
少し登るとー



右に曲がります。


森に向かって登る、登る。


また、石段に石仏。

魂抜きしてあっても踏まないように。


さらにひとつ。
お賽銭入れまで置かれてる。



道幅が拡がり、左に曲がる、その角にー

伝武井夕庵(せきあん)邸跡。

ってか、武井夕庵って誰?


信長の右筆=文官=事務官僚だったみたい。
元は美濃の斎藤道三に仕え、斎藤家滅亡後、信長に近侍したそう。
お茶にも精通していたそうです。
邸宅の位置が秀吉や利家より上にあります。
信長からの信頼がめっちゃ厚かったことが分かります。

そこから少し登るとー

上り坂が一息つきます。
平らな道を歩くとー



再び、邸宅跡らしい場所。
石垣に沿って進むとー

そこは、下山ルートとの分岐の丁字路になっています。
写真左奥が下山ルート。
帰りはそっちへ向かいます。
写真中央が天守跡・山頂への道。
写真右が登ってきた道。

そして、この平らな場所はー


織田信忠邸跡。

織田信忠は、信長の長男で織田政権第2代当主。
幼名は「奇妙」。
初陣は、信長が浅井朝倉にリベンジを果たした北近江浅井攻め。
その後、石山本願寺との戦いや長篠の戦いでも活躍。
信長に先んじて甲斐に侵攻。
天目山の戦いで武田氏を滅亡させました。
大功をあげた信忠は、信長から後継者と認められました。

本能寺の変の際、信忠も入京していました。
本能寺に駆けつけようとしましたが、間に合いませんでした。
御所に籠城して明智軍を迎え撃ちましたが、
明智の兵数が圧倒的すぎて、結果、自害しました。
享年26。

信忠邸跡の奥の石段。




霧も出て、神秘的な雰囲気に。
城跡と云うより、お寺の参道みたいに。


雪をかぶった針葉樹林も幻想的に。



石段が一息つく踊り場のような場所はー


また邸宅跡です。


森蘭丸とー


織田信澄の。

森蘭丸は、信長の近習。
武将の側に仕え、諸事をこなす家臣のことです。
信長本人から召し抱えられたのは、天正5年(1577)。
本能寺の変のたった5年前。
なのに、意外と有名。

織田信澄の別名は、津田信澄。
織田信長の甥にあたります。
越前一向一揆征伐や石山本願寺との戦いにも従軍。
信長の周旋で明智光秀の娘と結婚しました。
そのことが後の彼の運命を決定づけました。
本能寺の変直後、光秀との共謀を疑われた信澄は、
信長の三男・信孝と丹羽長秀らに攻撃を受け、討ち死に。
首は、信孝の命令で堺の町外れにさらされたそうです。

信忠より、高い場所に邸宅を構えていたのは、
それだけ、信長に信用されていた証拠。
謀反なんてまったくの濡れ衣でした。



蘭丸・信澄邸跡の少し上にある石垣。
ここは、黒金門跡です。
ここからいよいよ、安土城城郭の内部へと入っていきます。

  

黒金門跡

安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。
周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょう。
平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。
多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。
壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。

高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにあります。
東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。
高石垣の裾を幅2~6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。
外周路の要所には、隅櫓櫓門等で守られた入り口が数カ所設けられています。
この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口なのです。

安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。
しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。
様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。

平成7~12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。
ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。


門内は、カクカクッと曲がる虎口になっています。

写真中央は二の丸の石垣。
その二の丸や天守、本丸は、写真右へ。
その前に、左の階段へ寄り道します。

ちなみに、冬に訪れたときは訪問し忘れてました。


10月はまだ草がぼーぼーです。
じっとしてるとヤブ蚊に食われそうな石段を登るとー




石塔が4つ並んだ一画があります。


「織田信雄公四代供養塔」です。


右から、
宇陀松山藩初代藩主織田信雄(戒名:徳源院殿実巌常眞大居士)、寛永7年没、享年73歳。
4代織田信武(戒名:圓明院殿定岩宗恵大居士)、元禄7年没、享年40歳。
3代織田長頼(戒名:徳雲院殿回岩宗頂大居士)、元禄2年没、享年70歳。
2代織田高長(戒名:瑞泉院殿一岩宗徹大居士)、延宝2年没、享年85歳。

織田政権は本能寺の変後、秀吉に乗っ取られてしまいました。
最終的に生き残ったのは、信長の次男・信雄の家系だけでした。
関ヶ原の戦い後、信雄は家康から5万石を与えられました。
宇陀松山藩(奈良県宇陀市)の大名となりました。
でも、4代の頃、お家騒動が起き、信武は自死してしまいました。
信休が5代藩主として認められましたが、
丹波柏原藩(兵庫県丹波市柏原)に2万石で移封されました。
そしてそのまま、明治維新を迎えています。

では、の黒金門内へ戻りー


二の丸へと向かいます。


踊り場をいくつか挟んだ緩やかな石段をー

二の丸の石垣に沿って反時計回りに登りー



二の丸下の分岐。

写真右へ行くと本丸、天守。
またその前に、写真左の石段へ向かいます。




石段を上がった先が二の丸跡になります。

長谷川秀一邸跡の平らな空間。

長谷川秀一は、信長の小姓としてキャリアをスタートしました。
目立った活躍は、安土城が完成して以降。
奉行衆として織田政権を支えました。
信長とのパイプ役を務めていたので、人脈が豊富だったようです。
本能寺の変のときは家康の饗応役として堺にいました。
変後、家康一行に同行、尾張熱田までの道案内を無事勤めました。
そのとき、豊富な人脈がとても役に立ったのでした。
その後、秀吉側の大名として武功を上げ続けましたが、
文禄の役で朝鮮に渡り、苦戦の最中、病死したそうです。

開けた空間の奥にー

これまでの石垣とは積み方が異なる石垣があります。
ここは、織田信長の本廟(霊廟)です。


本廟の中は立入禁止です。
外から覗くだけ。


お正月のすぐあとだったので、注連飾りがありました。

天正11年(1583)2月、羽柴秀吉によって建立されました。
ご存じの通り、本能寺の変直後、光秀らは必死で探しましたが、
信長の遺骨の一片すら発見できませんでした。
なので、信長の太刀や烏帽子、直垂(ひたたれ)などが埋葬されました。

ひとりごと

雪が降りしきる中のお山歩となりました。
そのせいか、お山はほとんど無人でした。
何処にカメラを向けても、人が映り込まないし、順番待ちもない。
誰気遣うことなく、安土城を楽しむことができました。

安土城が廃城になって以降、安土山を守ってきたのは、摠見寺です。
現在も摠見寺が所有、管理しています。
一般的な城跡は、市や県が管理し、拝観料を取っているところが多いです。
安土山は、摠見寺が入山料を徴収しています。
その摠見寺は、正確には、遠景山摠見寺。
臨済宗妙心寺派のお寺です。
天正4年(1576)、安土城築城の際に信長自らが城内に建立しました。
比叡山を焼き討ちし、一向宗の一揆勢をなで切りにし、本願寺と対立した信長自らです。
城に招かれた大名などは、大手道ではなく、摠見寺を通る百々橋口道で天主へと案内していたそうです。
近隣にあった堂宇を移築してきたものでしたが、信長自慢のお寺だったのでしょう。
堂宇は安土城を焼いた火事でも燃えませんでした。
でも、江戸時代の安政元年(1854)の火事で、ほとんどの建物を焼失。
その後は、昭和7年、伝家康邸跡に仮本堂を建てて、いまに至っているそうです。
現在は、土・日や祝日に特別拝観を行ってて、信長公所用の鉄鍔や陣羽織を拝観することができるそうです。
ちなみに、抹茶付。

大手道を登り始めて最初にあるのが、秀吉の邸宅跡。
広くて驚きました。
とは云え、標高が高い方が信長に信頼されてるらしい。
でも、あんなに広い敷地を与えられてる時点で、別格でしょ。
日本史で唯一、一農民から天下人になった人は違うわ。
この頃は、安土からも近い長浜の城が秀吉の居城でした。
安土に屋敷はあっても、秀吉はほとんど、利用しなかったんじゃないかな。
中国遠征とか信長に言いつけられて、長浜にもなかなか帰れなくなってたし。

利家の邸宅跡は、ぱっと見、狭く見えたせいで、二度ともスルーしてしまいました。
林のなかに遺構があったなんて、このホムペの編集中に気づいたくらいでして。
利家の功績を考えれば、狭い訳がない。
秀吉並みに広くて当たり前。
次はちゃんと見とかなきゃ。

さて、大手道のこと。
受付から150mくらい、ずっと真っ直ぐです。
道幅も広くて、戦国時代にできたお城の道とは思えない造りです。
攻め手にとっては、とっても登りやすそうですから。
道の左右も邸宅が並んでます。
弓や鉄砲を撃ちかけてくる櫓はありません。
まるで、安土城を攻めてくる敵なんか、いないかのような余裕を感じます。
事実、信長は、安土城を一般公開しています。
武将ほか、大名の家臣らを招き、御殿を見学させています。
その際、信長自らが入口に立って見学料(百文)を徴収までしました。
農民まで見学できた、なんて話もあります。
戦国時代のお城は、戦の装置。
機密情報の塊です。
他人に開放するなんてもってのほか。
内部構造を知られたら、戦に負けたも同然です。
平和が訪れた江戸時代は、お城は武家の権威の象徴。
招いた数人の客人を案内する以外に、大勢に開放するなんてあり得ませんでした。
現代は、見学料を払ってお城を見学できるのなんて当たり前です。
でも、信長は400年以上前にそれをやってのけています。

あと、信長は、ライトアップもやってます。
「信長公記」に (以下、現代語訳)、
「七月十五日、安土城の天主閣および惣見寺にたくさんの提灯を吊るさせ、また、お馬廻り衆を新道に配置し、または入り江に舟を浮かべさせて、それぞれに松明を灯させた。
城下一帯が明るく、灯は水に映って、言いようもなく面白く、見物の人々が群れ集まった。」

とあります。
ポルトガルのカトリック宣教師・ルイス・フロイスも見たようで、

「いかなる家臣も家の前で火を焚くことを禁じ、色とりどりの豪華な美しい提灯で上の天守を飾らせた」

戦に備えてかがり火を焚くことはあったでしょう。
でも、見物客目線でお城をライトアップするなんて発想は、当時、信長以外になかったでしょう。

安土城を建てた頃の信長は、周辺地域に脅威がまったくなかったわけではありません。
天正4年頃は、第三次信長包囲網と呼ばれる戦に悩まされていました。
本願寺に甲斐の武田勝頼、中国の毛利輝元、宇喜多直家、北陸の上杉謙信、大和の松永久秀などなど。
手強い相手ばかり。
戦に明け暮れていて、気晴らしでもしたかったのかな、信長。
戦のためのお城にしなかったのは、信長が平和主義者だったからじゃないのかな。
真に平和な現代の平和主義とは異なる、戦国時代の平和主義だけど。
招待客に対し、自分を神様のように拝ませた話もあります。
人と人は争うけれど、人と神は争わない。
戦を終わらせ、戦のない世を迎えるための、究極の詭弁だったのかも。

石段に埋め込まれた石仏も意味があったのかも。
「災い転じて福となす」や、菅原道真、平将門、崇徳天皇の怨霊が神様になったり。
(崇徳天皇は四国全体の守り神って伝説もあったりします。)
日本人は、穢れや災い、祟り神を、善良な神様に変えてしまう不思議な力があります。
石仏や墓石もそのまま用いれば不吉だが、逆さにすれば、石垣を護ってくれる、みたいな。
まぁ、単純に、石材不足で、石をかき集めたら、混ざってしまっただけかも知れないけど。
でも、墓石は、魂抜き=お性根抜き=閉眼法要を行えば、ただの石に戻るんですよね。
お地蔵様だって同様です。
魂を抜いたあとなら、石垣に使ったっていいんです。
ただの石に戻ったのですから。
まぁ、見た目はよくないですから、普通はやりませんが。
魂抜きを知らない人が見たら、罰当たりだって必ず云うだろうし。
石段の石仏の側にお賽銭入れが置いてあり、小銭がいくらか入ってました。
僕は、なに馬鹿なことをって思ってスルーしました。
とは云え、ちゃんと石仏は踏まずに登りました。
人形やぬいぐるみが踏めないのと同じ感覚です。

人によっては罰当たりなこともしてた信長。
その最初のエピソードとして、父親・信秀の葬儀で、仏前に抹香を投げつけた話。
葬儀があった頃は今川勢が尾張深くに侵攻していた時期でした。
そんなときに、大仰な葬儀をしている場合ではないとの怒りもあったでしょう。
抹香を投げつけながら、信長は何やら大声で叫んだそうです。
実は、古来の日本では「魂よばい」という習わしがありました。
大声で死者の名前を呼び、魂を呼び戻そうとする行為です。
偉大な父を失った悲しみは大きかったでしょう。
あの大声が「魂よばい」だったと想像すると、また違った信長像が想像できるのではないでしょうか。

さてさて、最後になんですが。
ここまで、伝羽柴秀吉邸跡など、屋敷跡を伝○○跡と紹介してきました。
実は、この伝○○跡、異論がないわけではありません。
それらは、江戸時代の絵図に基づいた後世の想像の産物に過ぎないからです。
戦に明け暮れていた秀吉や利家らが、安土城内に大きな屋敷を持っても使う間がないわけで。
それぞれ、自宅である居城も持っていましたし。
戦の最前線にいるか、領地経営を行っているか、休んでる暇はなかったでしょうし。
お膝元の安土でのんびりなんかしていたら、信長の癇癪に触れる恐れがあります。
あの大きな敷地は、信長自身の邸宅だと考えた方が、実はスッキリします。
伝○○跡は、絵図を描いた人が知ってる武将の名前を当てはめていった可能性があります。
安土で大勢の著名な家臣が信長と共に暮らしている姿を想像すると、とてもわくわくするけど。
絵図書いた人も、多分に夢のような空想、入ってたんじゃないかな。
僕個人も、秀吉や利家の邸宅ではなかったと思います。

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