安土城の安土山
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安土駅から
距離 約1.8km
国道・県道
下記写真の場所


初めて安土を訪れたのは、もう8年も前のことになります。
安土駅は、京都と名古屋を結ぶ東海道本線上にあります。
この日は、大坂駅から米原行きの快速に乗車しました。

ちなみに安土駅は日中、1時間に2本のペースでしか列車が来ません。
大阪や京都、都市近郊なら、数分ごとに列車がやって来ます。
でも、安土まで来ると、さすがにローカルっぽくなります。
停車するのは快速ばかりですが、京都以東は各駅停車してます。

正月明けに訪れたものですから、雪が積もり舞う、寒い日でした。
京都までは全然白くなかったけど、滋賀まで来ると一気に冬景色。


初めて訪ねた当時の安土駅の駅舎。
ローカルっぽい駅舎でしたが、再訪したら…


都会っぽいデザインに建て替えられてました。

駅前のロータリー。


鎮座するのは織田信長公。


下半身が短めな気もしますが。


ロータリーも植栽がなくなりシンプルになってます。
像はそのまま。

昔は、駅舎に向かって見ると、こんな感じでした。
なんか、懐かしい。
写真右の変わった建物は、駅の向こう側とを結ぶ地下道の入口。
そちらもシンプルな建物に生まれ変わってます。

さて、駅から安土山は2kmくらい離れています。
徒歩だと20分くらいかかります。
「安土城天主 信長の館」などの周辺施設も訪ねるなら、
レンタサイクルがおすすめです。


駅前にはレンタサイクルのお店が2軒あります。
最初はこちらでお借りました。

でも、しばらく呼びかけてやっと出てきた店主。
散々待たせて、風邪を引いて体調が悪いとぼやく、ぼやく。
面倒くさそうな対応されたので、二度と来るもんかと思いー


次は、ほぼ隣のこちらで借りました。
観光地らしい親切な対応でした。
個人的にはこちらのお店をお勧めします。
料金はどちらも多分一緒です。

お城に行く前に、
駅の向こう側にある「安土城郭資料館」へ。
地下道で駅の南側へ向かいました。



地下道の建物と並んで立ってる「安土城郭資料館」。


入口。


信長甲冑の顔出し看板。

安土城の百名城スタンプをもらうために立ち寄りました。
安土城跡の受付や「安土城天主 信長の館」でも捺せます。

安土の観光案内所的な存在も兼ねてる資料館。


甲冑もあったりー


ジオラマもあったり。

フロアの結構なスペースを占めているのがー


安土城の巨大模型。


寺院的な装飾の天守も再現されてます。
とっても精巧にできた模型ですが、さらに凄い仕掛けがあります。
数分間の紹介ビデオを見た人にだけのお楽しみがあるのです。


ぱっか~ん!!
なんとふたつに割れるのです。


安土城の断面を見ることができるのです。


信長が舞を舞った、噂の吹き抜けも精巧に再現されてます。


あくまで文献からの想像模型ですが、実物見たかったぁ。
誰だよ、山崎の合戦の後に放火したのは!


信長様じゃ!

では、駅前に戻り、安土山へと向かいます。

ひとまず北上し、県道2号線へ。




辻にあった「朝鮮人街道」の碑。
江戸時代、朝鮮からの使節「朝鮮通信使」が通った道です。
元は信長が安土と京都を結ぶために整備した道でした。




この日は「下豊浦」交差点で2号線を右折。


道の先に、薄く雪化粧した安土山。



この日はホント寒かった…。
道の周囲はずっと田畑。
冷たい風も吹き抜け放題。
傘忘れてて、雪で湿った服が、琵琶湖を越えてきた北風で凍みました。



2度目のときは田園の中を走りました。
うって変わって、ほのぼの、散策日和。

写真左が安土山。
右が「繖山」と書いて「きぬがさやま」と読むお山。
安土山より全然、大きなお山。
山頂には石垣が立派な「観音寺城」がありました。
安土城の総石垣造りのお手本になったお城です。
麓には、「滋賀県立安土城考古博物館」や「安土城天主 信長の館」があります。

低地帯な琵琶湖東岸にはこんな風に、
ぽつんぽつんと孤立したお山が点在しています



安土城跡入口。
「← 安土城跡」が目印。


「近江風土記の丘」や「滋賀県立安土城考古博物館」、
「安土城天主 信長の館」は、もちっと先にあります。

左折して奥に駐車場や駐輪場があります。


入口に立つ石碑。


筆じゃなく、マジックで書いた文字を元にしたような字体。
「安」の字がなんか優しい。

特別史跡 安土城跡

織田信長が天下統一を目前にしてその居城として築いた城である。
天正4年(1576)着工、天正9年ごろ竣工したと認められる。
天正10年(1582)6月、本能寺の変の直後に天主閣等も罹災し、ついで廃城となった。

琵琶湖に突出した丘陵の安土山の全域を城域とし、各所に石垣を築き、中央に七層の大天王閣をはじめ各殿舎等を建て維大かつ壮観を極めた。
また山ろく平地には城下町を形成するなど近世城郭の先駆であった。



現在、城の縄張りを知ることのできる石垣石段・礎石等のほか、罹災をまぬがれた織田氏の菩提寺である総見寺の三重塔楼門および金剛力士像(いづれも重要文化財)が残存している。

入口から100mほど入ったところにあるー



「城なび館」。
最初に訪問した頃は無料で使用できました。
吹雪と北風から逃げるように入らせてもらいました。
また、山中にはトレがないので、ここで済ませておきましょう。

現在は有料(200円)な施設になってしまったようです。


天守の最上部の再現模型。


伽藍のような建物の中ー


襖絵も再現されてました。

待ってても止みそうにない雪。
あきらめて、お山歩再開。

野っ原みたいな駐車場の片隅にある駐輪場に駐輪。



山麓の平坦地で見つかった、段々畑のような低い石垣たち。
安土城はしばらく、発掘調査も行われず、謎の城でした。
本格的な調査・整備は、平成元年(1989)から20年計画で行われました。
でも、その20年間でできたのは、約1k㎡のうち、
たった約0.17k㎡のみ。
8割のエリアが未調査のままで終了。
すべてをあきらかにしようとすれば、
最低でもあと50年は必要かも。

入城口へ続く道。


観光客に話しかける不審者がいる云々の看板が増えてました。

  

特別史跡安土城跡

安土城の築城は、織田信長が武田勝頼を長篠の合戦で打ち破った翌年、天正4年(1576)に始まります。
築城にあたっては、畿内・東海・北陸から多くの人夫が徴発され、当代最高の技術を持った職人たちが動員されました。
まさに安土城は天下統一の拠点となるべく当時の文化の粋を集めたものだったのです。
築城開始から3年後の天正7年には天主が完成して信長が移り住みました。
しかし、その三年後天正10年に本能寺の変で信長が殺されると、城は明智光秀の手に渡り、その光秀が羽柴秀吉に敗れたすぐ後に天主・本丸は焼失してしまいます。
それでも安土城は織田氏の天下を象徴する城として、秀吉の庇護の元で信長の息子信雄や孫の三法師が入城を果たし、信長の跡を継ぐものであることをアピールします。
しかし、天正12年小牧長久手の戦いで信雄が秀吉に屈すると織田氏の天下は終焉を迎え、翌年安土城はその役目を終えて廃城となるのです。
その後江戸時代を通じて信長が城内に建てた總見寺がその菩提を弔いながら、現在に至るまで城跡を守り続けていくことになります。

安土城跡は大正15年(1926)に史蹟に、昭和27年(1952)に滋賀県蒲生郡安土町・東近江市(旧能登川町)にまたがる約96万㎞が特別史跡に指定されました。

昭和15・16年(1940・41)に天主跡と本丸跡の発掘調査と整備が行われ、昭和35年~50年(1960~1975)にわたって主郭部の石垣修理が行われました。
昭和57・58年には信長400回忌にあわせて城跡南面の平面整備が行われています。
そして、平成元年度(1989)から安土城跡を将来にわたって永く保存し、広く活用することを目的として『特別史跡安土城跡調査整備事業』が20年計画で行われています。


大手口から天守台までのメインストリートは整備済み。


雪だるまがウエルカム。

東側にある石塁北上段郭。

  

東側石塁北上段郭と虎口の解説板。

東側石塁北上段郭と虎口

東側石塁東虎口の城内側は、一段高い郭(A区)が間近迫り、この郭の南面を画する石垣(石垣360)により遮られています。

石塁との間は約6mあります。石垣に沿って側溝が設けられていることから大手道に通じる通路であったことが分かりました。

この石垣360には大手道から東へ約25mの地点に上段郭へ上がる虎口(A区虎口)が設けられていました。
虎口は、間口約5.0m、奥行き約5.5m以上で、石段で上がるようになっています。
石段は下段4段、上段3段で、中間に奥行き2.5mの踊り場が造られていました。
踊り場には東西側壁寄りに門の袖柱を受ける礎石が残っていました。
門の主柱を受ける礎石が残っていないため門の規模は不明ですが、残存する2基の小礎石から薬医門か唐門であったと思われます。

上段郭の内部は江戸時代以降に水田耕作などで開墾されており、築城時の遺構は残念ながら残っていません。
しかし、虎口の門の形態や郭の広さから伝羽柴秀吉邸上段郭にあるような屋敷であったことが考えられます。

東虎口から入った賓客をこの虎口から上段郭にある建物へ招き入れたと思われます。

石垣には大きな石が等間隔に配置されています。
模様のように大石を配置していることから「模様積み」と仮称しました。

このような大石を等間隔に置く石垣の例は、佐賀県肥前名護屋城跡の古田織部陣跡、広島県吉川元春館跡や万徳院跡にあります。

しかし、安土城の方が古く、模様積みの初源ではないかと思われます。

※虎口とは、防御機能のある出入り口のことです。

安土城の南側・大手口には、門が3つもあったことになります。

ひとりごと

安土城跡がある安土山は、大阪・京都から名古屋を結ぶ交通の要所にあります。
すぐ近くをJRの東海道本線が通っています。
安土山と繖山(きぬがさやま)を結ぶ尾根に、東海道本線のトンネルが通っています。
新幹線や名神高速も通っているけど、離れすぎていて、車窓からお山はよく見えません。

車窓を流れていく琵琶湖と共に目に入る安土山。
大阪から名古屋へ行くのに米原まで快速を使ったときとか、車窓から安土の山をよく探していました。
「安土城跡」って大きな字の看板が麓に立ってたので、見つけることができたくらい。
遠目から眺める安土山は、緑の田園の中に、まるで島のようにぽつんと存在しています。
低地帯なので、扇状地が琵琶湖の岸を埋めるまでは、ホントに島だったのだと想像します。
築城当時だって、京や大坂に比べると、随分、寂しい場所だったでしょう。
信長がなぜ、こんな場所に城を建てようと思ったのか、不思議と云えば不思議です。
確かに、天皇の御座す京都と信長の原点・尾張を結ぶ、中間地の交通の要衝。
尾張や美濃にさくっと戻れることもできれば、北陸に転進することも容易い。
船を使えば、陸路より、早く、京都にアクセスすることもできた。
でも、現代の大企業が琵琶湖沿岸にそんなに進出していないことを思えば、やっぱり、安土は田舎。
大津や彦根の方が栄えてます。
信長以降、豊臣秀吉も徳川家康も、安土は無視。
同じ琵琶湖沿いの長浜の城主だったこともある秀吉は、最終的には、大阪や伏見を選びました。
徳川家康は彦根を選びました。
信長は、一体、なにがよくて安土を選んだのか…。
信長は、領地が拡大するにつれ、居城も移動しました。
清洲から小牧山城、美濃岐阜城、そして安土へ。
土地に縛られることがなかった信長は、当時の武士・大名としては希有な存在です。
京都を手中に収めて、安土に城を作った信長。
もし、本能寺で落命せず、四国・九州も平らげていたら、また新たな城を建てていたような気がします。
でも、様々な意匠を凝らした安土城は、別荘や老後の家感覚だったのかも。
本能寺の変の7年前には、家督を信忠に譲っていましたし。
琵琶湖の畔でのんびりと。
そんなことを考えながら、安土をぶらり、訪ねたのでした。

さて、城好きなら、安土城跡は外せません。
石垣しか遺ってないけど、信長の幻の名城の跡ってだけで別格です。
安土は結構、遠く不便なのですが、僕は二度、訪ねています。
一度目は、純粋に安土城目当てに。
二度目は、安土城の百名城スタンプが欲しくて、彦根城の帰りに立ち寄りました。

安土まで離れると、駅舎もこじんまりとしています。
初めて降り立ったときの駅舎は、田舎の駅って感じで、快速が止まるような駅には思えませんでした。
(新快速は止まらないけど)
まぁ、上りも下りも、日中は1時間に2本ずつしか停車しないけど。
駅を出ると、信長の銅像が出迎えてくれます。
あんまり、かっこよくないけど。
ゲーム「信長の野望」の絵を参考に作り直したら、断然、かっこよくなるだろうなぁ。

安土の駅から城跡まで、歩くにはちょっと距離があります。
なので、二回とも、駅前で自転車を借りて行きました。
上でも書きましたが、1度目のとき、自転車を借りた店のおばちゃんが無愛想で最悪でした。
呼び鈴を何度も鳴らしてようやく、奥からおばさんが出てきました。
笑顔なんて欠片もなく、体調悪そうな、迷惑そうな顔をして。
で、いきなり、風邪引いて調子が悪いと言い始め、娘に移されただの、聞いてないのにぐだぐだと。
自転車を借りたいと申し出ると、はぁ?って顔をなぜかされました。
田舎のローカル駅には、通学・通勤用の自転車を預かる店が駅前にあったりします。
ここはその手の店だったのかな?と、一瞬、思いましたが、違う、違う。
おばさんの真横でレンタサイクルって紙が風でパタパタしてる。
風邪引いてて具合が悪いのに、なんで、こんなタイミングで借りに来たんだ、お前…。
そんな感じで、自転車も適当に選んでと、実に投げやり。
レンタル料金の話もそこそこに、奥に引っ込んでしまいました。

なので、2度目の訪問時は、隣のお店にしました。
全然、普通に対応してくれて、前回はもらえなかった近隣の地図とかいただけました。
また行くことがあったとしても、あっちのお店では絶対、借りません。

この日は、大坂から京都を経由して安土にやって来ましたが、大阪も京都も雪は全然、ありませんでした。
電車が近江に出た途端、雪景色に変わりました。
安土の辺りは、昨夜の雪が屋根に雪が積もってる感じで、幸いなことに、道に積雪はありませんでした。
自転車も安全に走ることができました。
家並みは駅周辺だけで、県道に出ると一気に田畑が拡がりました。
そのせいでずっと、琵琶湖からの冷たい風が吹きっさらし状態。
手も足も、耳たぶも冷たくなって。
でも、自転車を漕いでる分、服の下、体はぽかぽか。
雪は強く弱く、ずっと降り続いていました。
安土山は粉砂糖をかけたように白くなり、寒々とした姿がどんどん、近づいてきます。
基本的に、僕は冬が、雪が好きな人間です。
長野や北海道のスキー場で働いていたことがある僕は、雪を見ると、喜び庭駆け回るタイプ。
寒い、めっちゃ寒いけど、吹雪の中を自転車で走っている瞬間に興奮もしていました。

安土城の入口に到着した頃、大粒の雪、牡丹雪みたいなのが降り始めました。
その日来てた服は、防水や撥水がイマイチ効いていませんでした。
さすがに、このままだと、服がびしょ濡れになると思い、城なび館に入って一休みしました。
クルマで来たらしい観光客もちらほら居ました。
自転車で来たのは僕だけでした。
駐車場からクルマが1台去り、また1台と、やがて僕ひとりになりました。

駐車場からお山へ向かう道、大手道には、その名の通り、大手門があったようです。
発掘調査の際は門の遺構はなにも見つからなかったようですが。
天守は、本能寺の変のあとに起きた火災で焼け落ちました。
でも、麓の館などは延焼を免れました。
しばらくは織田氏の居城として、主に二の丸を中心に使用されていたそうです。
やがて秀吉と織田家のパワーバランスが逆転すると、天正13年(1585)、秀吉は安土城を廃城に。
秀吉は、西へ5キロほど離れた場所に、秀次のために八幡山城を築城。
その際、安土城や城下町の資材、使えるものはすべて持ち去ったようです。

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