県道から(写真左)
南麓から
安土山(あづちやま)
滋賀県近江八幡市安土町
標高198m
※三角点はありません。

安土山は、織田信長が築城した安土城があったお山です。

特別史跡安土城址。
全山域が史跡に指定されています。

滋賀県にある日本最大の淡水湖「琵琶湖」の東岸に位置します。

琵琶湖は、南北68km、東西の最大幅22.6km。
湖岸線の延長は235km、湖面標高は84.4m、湖水域面積は675k㎡。
海のように大きな湖です。

西岸は、武奈ヶ岳(1214.4 m)を最高峰とする比良山地と呼ばれる急峻な山並みが連なっています。
比良山地の西は花折断層を挟んで丹波山地と続いています。
安土山がある東岸・湖東地域は、芹川・犬上川低地、愛知川低地などの湖東低地の平野が拡がっています。
低地のなかに湖東島状山地と呼ばれる孤立丘の小山地が散在しています。
安土山もそのひとつです。
平野のさらに東奥にある鈴鹿山脈からは分断された場所にあります。

地質的には、「湖東流紋岩類(瓶割山溶結凝灰岩)」や花崗岩からなっています。
湖東流紋岩類はこの地域特有の岩石です。
流紋岩、流紋岩質の溶結凝灰岩、花崗斑岩などをまとめて湖東流紋岩類と総称しています。
6500万年前、中生代末白亜紀の大規模な火山活動による火山砕屑物と考えられています。

湖東流紋岩は、石材として品質が高い岩石です。
花崗岩が千年保つなら、湖東流紋岩はその倍の2千年保つとも云われています。
古来より、石垣や石室にも利用されています。
琵琶湖対岸にある春日山古墳群の石室も湖東流紋岩で築かれていました。
安土山の安土城の石垣も湖東流紋岩が使われています。
彦根城の石垣も同様です。

地名の「安土」は、織田信長が命名したとも云われています。
『細川家記』に「天正4年正月、信長江州目賀田を安土と改む」と記載されています。
安土山は元元、佐々木六角氏の家臣・目賀田摂津守貞政の所領で、「目賀田山」と呼ばれていました。
それを信長が、中国の古典の一節、「平安楽土」「安穏楽土」を由来に「安土」としたとする説です。
一方で、『信長公記』の元亀元年(1570年)5月12日の条に、1
「安土城に中川八郎右衛門楯籠り」
とあります。
安土城築城が天正4年(1576)なので、「安土」は築城以前から使われていた可能性もあります。
けれど、この元亀元年の条以外で「安土」が使われるのは築城以降です。

安土城が築城された当時、安土山は半島のように北部が湖に飛び出していました。
また、昭和初め頃まで、東に伊庭内湖、西に弁天内湖(ふたつ合わせて「小中之湖」)がありました。
さらに西に「西の湖」、北の琵琶湖との間に「大中の湖」がありました。
陸路より、水上を移動した方が、京に早く着けるとの思惑もあったのでしょう。

昭和18年(1943)から43年(1969)にかけ、小中之湖、大中の湖の干拓事業が行われました。
西の湖を残し、ほとんどが田畑に生まれ変わりました。
琵琶湖も遠くなってしまいました。
作家の司馬遼太郎は、干拓事業の前と後の2度、安土山に登っています。
昔、目の前いっぱいに琵琶湖が拡がっていた光景は跡形もなく、失望したと書き残しています。

天正4年(1576)、織田信長により山頂に安土城が築城開始されました。
約3年の歳月をかけ、天正7年(1579)、城は完成しました。

戦国時代、織田信長は尾張(現在の愛知県西部)の一地方領主に過ぎませんでした。
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川氏を撃破し、数年後には尾張の統一を果たしました。
永禄10年(1567)に斎藤氏を倒し、尾張・美濃の二カ国領有の戦国大名となりました。

「天下布武」の印を 使い始めたのもこの頃です。
ちなみに、「天下」は日本全土ではなく、5畿内(大和、山城、和泉、河内、摂津)を意味します。
「布武」は、幕府を再興すると云う意味だと、近年は解釈されています。

その後、足利義昭と共に上洛。
三好三人衆らを駆逐し、室町幕府の再興を果たしました。
けれど、北近江の浅井長政に裏切られ、窮地に陥ることもありました。
石山本願寺や一向宗徒ら宗教勢力には長い間、苦しめられました。
比叡山焼き討ち後、足利義昭を京都から追放し、天下人の道へと歩みを進めました。
浅井・朝倉連合を滅ぼし、天正3年(1575)には、長篠の戦いで甲斐の武田氏に勝利。
その翌年、安土城の築城が開始されました。

当時の戦国大名は土地に執着しがちでしたが、信長は領地拡大と共に居城を変えていきました。
幼少期の信長は、名古屋城の前身である「那古野城」で過ごしました。
19歳で家督を継いだ後、織田家の本拠である「清洲城」に居城。
美濃の斉藤氏の居城「稲葉山城」を攻め落としたあとは、稲葉山城を「岐阜城」と改名して居城しました。
「長篠の戦い」で武田氏を破った翌年、安土城を築城。
天正10年(1582)の本能寺の変で命を落としたため、安土城が最後の城となりました。

城の姿は「信長公記」や「安土日記」、イエズス会宣教師の記述などから、様々に想像されています。
近年の発掘調査により、総石垣で普請され、日本で初めて石垣に天守が載っていたことが確認されました。
総石垣は、安土山に隣接する(きぬがさ)山にあった観音寺城を見本に普請されました。
天守のような建造物に関しては、安土城以前から全国に見られます。
5重以上の天守となると、安土城が最初だと云われています。

湖東流紋岩でできた大手道の左右には、羽柴秀吉や前田利家など家臣団屋敷などが配置されています。

本能寺の変の後、明智光秀の軍が占拠しました。
山崎の戦いでその明智光秀が敗れた後、安土城の天主や本丸は焼失してしまいました。

主を失い、埋没していた安土城は、昭和になって初めて学術的な発掘調査が行われました。
天守や本丸跡を中心に行われました。
平成に実施された発掘調査にて、大手道が検出されました。
秀吉や利家の館跡と伝わる場所から礎石が見つかったのもこの頃です。

現在、安土城址の全域は、宗教法人摠見寺の所有地となっています。
入山には拝観料700円(2022年時点)が必要です。
入山時間も午前8時半~午後5時(入場受付最終4時) と限られています。

安土山
入城口
900m 1.9km 彦根市
800m 3.8km
200m JR安土駅
1.4km
1km
28.5km 16.4km 6km 彦根市
京都五条
3.7km 6.6km
1km
374km 名神高速道路 53.9km 名古屋
松山IC 京都南IC 八日市IC

京都駅

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安土駅

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