へ行こう!
主郭部 | |||||||||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩ | |||||||||||||||||||||
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①蘭丸・信澄邸跡の少し上にある石垣。
ここは、黒金門跡です。
ここからいよいよ、安土城城郭の内部へと入っていきます。
黒金門跡 |
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安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。 |
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主郭への入口はこの黒金門の南西口のほか、
東南、北東、北の計4ヶ所ありました。
でも、現在、通行できるのは、この黒金門だけです。
なぜ、通行できなくしているのかは不明です。
(遺跡の保全もあると思いますが、
入山料を払わず、山道ルートで天守に入られちゃ困る人がいるため?)
門内は、カクカクッと曲がる虎口になっています。
②写真中央は二の丸の石垣。
その二の丸や天守、本丸は、写真右へ。
その前に、左の階段へ寄り道します。
ちなみに、冬に訪れたときは訪問し忘れてました。
10月はまだ草がぼーぼーです。
じっとしてるとヤブ蚊に食われそうな石段を登るとー
③石塔が4つ並んだ一画があります。
「織田信雄公四代供養塔」です。
右から、
宇陀松山藩初代藩主織田信雄(戒名:徳源院殿実巌常眞大居士)、寛永7年没、享年73歳。
4代織田信武(戒名:圓明院殿定岩宗恵大居士)、元禄7年没、享年40歳。
3代織田長頼(戒名:徳雲院殿回岩宗頂大居士)、元禄2年没、享年70歳。
2代織田高長(戒名:瑞泉院殿一岩宗徹大居士)、延宝2年没、享年85歳。
織田政権は、本能寺の変後、秀吉に乗っ取られてしまいました。
織田家で生き残ったのは、信長の次男・信雄の家系だけでした。
関ヶ原の戦い後、信雄は家康から5万石を与えられました。
宇陀松山藩(奈良県宇陀市)の大名となりました。
でも、4代の頃、お家騒動が起き、信武は自死してしまいました。
信休が5代藩主として認められましたが、
丹波柏原藩(兵庫県丹波市柏原)に2万石で移封されました。
そしてそのまま、明治維新を迎えています。
二の丸へと向かいます。
踊り場をいくつか挟んだ緩やかな石段をー
二の丸の石垣に沿って反時計回りに登りー
④二の丸下の分岐。
写真右へ行くと本丸、天守。
またその前に、写真左の石段へ向かいます。
⑤石段を上がった先が二の丸跡になります。
長谷川秀一邸跡の平らな空間。
長谷川秀一は、信長の小姓としてキャリアをスタートしました。
目立った活躍は、安土城が完成して以降。
奉行衆として織田政権を支えました。
本能寺の変のときは家康の饗応役として境にいました。
変後、家康一行に同行、尾張熱田までの道案内を無事勤めました。
秀吉側の大名として武功を上げ続けましたが、
文禄の役で朝鮮に渡り、苦戦の最中、病死したそうです。
開けた空間の奥にー
これまでの石垣とは積み方が異なる石垣があります。
ここは、織田信長の本廟(霊廟)です。
本廟の中は立入禁止です。
外から覗くだけ。
お正月のすぐあとだったので、注連飾りがありました。
天正11年(1583)2月、羽柴秀吉によって建立されました。
ご存じの通り、本能寺の変直後、光秀らは必死で探しましたが、
信長の遺骨の一片すら発見できませんでした。
なので、信長の太刀や烏帽子、
④の二の丸下分岐に戻り、天守へ向かいます。
細い通路を抜けて行くとー
⑥針葉樹がぽこぽこ生えた開けた場所に出ます。
本丸跡です。
グリーンシーズンはこんな感じ。
本丸跡の解説板。
本丸跡 |
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天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。 |
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北側の石垣を背に、振り返ってみた本丸跡。
北東の出入り口は通行止め。
この先には台所跡や伝米蔵跡があります。
南東出入り口も封鎖。
もし行けたら、左上の伝三の丸跡を見学できるんだけどなぁ。
発掘調査の際、金箔瓦が出土したらしいです。
1687年製の安土城最古の地図に名坂屋敷と記載されています。
信長の死から105年後に作成された地図ですが、
名坂なんて偉い家臣、いたっけ?
「信長公記」には「江雲寺御殿」と云うものが登場します。
催し物、寄合・会合が行われた会所の機能を有していたようです。
その北側の石垣。
石垣の大きな石は結構、ひび割れています。
それは、安土城が焼け落ちたときの熱で割れたとも云われています。
石段を登るとー
⑦本丸取付台跡。
ここは、「く」の字みたいな地形をしています。
北には「八角平」に通じる北出口がありますがー
八角平方面は、ずいぶんと前から立入禁止になっています。
八角平は、太湖=琵琶湖の眺めがとってもよかったそうです。
また、菅屋長頼邸跡だったとの言い伝えもあります。
菅屋長頼は若い頃から信長に仕え、
奉行職も務め、主に政務に当たっていたようです。
本能寺の変の際は長頼も入京していました。
長頼もふたりの子も同日に亡くなりました。
西側に天守跡に至る石段があります。
少し不揃いの石段。
「天主閣址」
天守じゃなく、天主。
ここから表記も「天主」にします。
最後の数段は右に曲がってー
⑧天主跡、安土山山頂に到着です。
雪で一部、よく見えないのでー
グリーンシーズンの映像で。
低い石垣に取り囲まれた空間。
ここは「石蔵」と呼ばれるお城の地下一階です。
ぱっと見、狭く感じます。
安土城郭資料館で見たような、
地上6階、地下1階、5層7階の高層建築物があったとは思えません。
実は、周囲の石垣は元元はもっと高く、厚く積まれていたようです。
その石垣いっぱいに上物が載っていました。
なので、1階の面積は、石蔵の2.5倍くらいあったそうです。
安土城郭資料館で見た模型。
なるほど、なるほど。
礎石は、柱を支えていた石。
全部で111個あります。
お城や塔の中心には大抵、「心柱」と、それを支える礎石があります。
でも、安土城は、中心部分に礎石がありません。
復元模型が吹き抜けになってるのはそのためです。
でも、石の代わりに穴があったそうです。
安土城天主台跡の解説板。
安土城天主台跡 |
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安土城の天主は、完成してからわずか3年後の天正10年(1582)6月に焼失してしまいます。 |
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安土山御天主の次第 |
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石くらの高さ十二間余なり。 |
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⑨西奥の木段で石垣に上がることができます。
上がってすぐー
見下ろすと、信長廟。
立方体みたいな形だったんだぁ。
合掌。
こっちは南側。
冬は、草も枯れてスッキリ。
でも、足元つるりん注意。
石垣の上を歩いて南西隅へ。
安土の町や鈴鹿山脈をチラ見できます。
南側をとことこ。
南東隅から天主内を。
戻って、北側へ。
⑩北側にはぽつんと木が立ってるだけ。
ちょっと広くなってます。
見晴らしもいいです。
ここが安土山の立ち入れる最高地点です。
北側の眺め。
冬はこんな感じでした。
安土城があった頃、琵琶湖の波打ち際は眼下にありました。
近代、干拓が大いに行われました。
琵琶湖は結構、遠いです。
北側を流れる大同川が流れ込む伊庭内湖。
干拓から取り残されたような湖。
琵琶湖向こうの比良山地はもっと寒々としてました。
ひとりごと | ||
天正10年(1582)の6月2日、本能寺の変が起きました。 変当日の安土城は、 炎上の正確な原因は不明ですが、いくつかの説が考えられています。 火事の際、天守と繋がった主郭の建物以外、燃えませんでした。 (火事で焼け残ったのは、主に伝○○跡。 その後、秀吉が家康・織田信雄連合軍と戦った小牧・長久手の合戦が、秀吉有利で休戦。 話は戻りますが、光秀、謀反のなぜ、です。 光秀らが生まれ育った環境は、まさに下剋上上等! 信長は、若い頃から、兄弟親戚と戦いってきました。 「天下布武」の名の下に、本能寺の変直前、天下人となっていた信長。 天下布武の過程で、将軍さえ追い出し、過激な仏教勢力を退け、増長していく信長。 戦国時代は、とにかく戦争しないと領地が拡げられません。 アクシズを落とし、人が住めない星にしてまで地球を守ろうとした、ガンダムのシャアのよう。 後に、信長の意志を継いだ秀吉が、日本全土で戦を起こし、日本を手中に収めるんですが。 「天下人」から「天上人」になるのでは? けれど、信長が誰も信用できないような暴君であったなら、もう少し、延命したでしょう。 とは云え、当時の本能寺は、要塞のような防衛能力を備えていました。 さて、天下の信長の手勢がたった150人しかいない状態。 ここまで散々尽くしてやったのに、大勢の前で蹴りやがって、ののしって恥かかせやがって! 物騒な話ですが、人は生きていれば殺してやりたいほど憎い相手ができてしまうものです。 信長を殺そうと思う動機のひとつやふたつ、当時の家臣らはみな、持っていたでしょう。 命の危機をあまたくぐり抜けてきた信長。 でも、松永久秀や荒木村重がもし、まだ生きていたら、本能寺の変の主人公は光秀ではなかったかも。 本能寺の変の動機なんて、考えたらキリがないんです。 つまり本能寺の変が起きた最大の理由。 信長を倒せる完璧な状況が発生してしまったこと。 あの天正10年6月2日(1582年6月21日)の払暁にしか、本能寺の変は起こせなかったのです。 きっかけが先。 お山が好きなみなさんに分かりやすく例えるなら 「そこに信長がいたから」 “Because it's there.” なぜ、信長を討つのか? 更に例えるなら、「キジも鳴かずは撃たれまい」か。 織田家臣団のナンバー2だった光秀。 近年、光秀が細川藤孝・忠興親子に送った手紙が発見され、 さてさて。 |
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