安土城の安土山
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主郭部
距離 約250m
標高差 約25m
徒歩
下記写真の場所
危険・行き止まり

蘭丸・信澄邸跡の少し上にある石垣。
ここは、黒金門跡です。
ここからいよいよ、安土城城郭の内部へと入っていきます。

  

黒金門跡

安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。
周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょう。
平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。
多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。
壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。

高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにあります。
東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。
高石垣の裾を幅2~6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。
外周路の要所には、隅櫓櫓門等で守られた入り口が数カ所設けられています。
この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口なのです。

安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。
しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。
様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。

平成7~12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。
ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。

主郭への入口はこの黒金門の南西口のほか、
東南、北東、北の計4ヶ所ありました。
でも、現在、通行できるのは、この黒金門だけです。

なぜ、通行できなくしているのかは不明です。
(遺跡の保全もあると思いますが、
入山料を払わず、山道ルートで天守に入られちゃ困る人がいるため?)


門内は、カクカクッと曲がる虎口になっています。



写真中央は二の丸の石垣。
その二の丸や天守、本丸は、写真右へ。
その前に、左の階段へ寄り道します。

ちなみに、冬に訪れたときは訪問し忘れてました。


10月はまだ草がぼーぼーです。
じっとしてるとヤブ蚊に食われそうな石段を登るとー




石塔が4つ並んだ一画があります。


「織田信雄公四代供養塔」です。


右から、
宇陀松山藩初代藩主織田信雄(戒名:徳源院殿実巌常眞大居士)、寛永7年没、享年73歳。
4代織田信武(戒名:圓明院殿定岩宗恵大居士)、元禄7年没、享年40歳。
3代織田長頼(戒名:徳雲院殿回岩宗頂大居士)、元禄2年没、享年70歳。
2代織田高長(戒名:瑞泉院殿一岩宗徹大居士)、延宝2年没、享年85歳。

織田政権は、本能寺の変後、秀吉に乗っ取られてしまいました。
織田家で生き残ったのは、信長の次男・信雄の家系だけでした。
関ヶ原の戦い後、信雄は家康から5万石を与えられました。
宇陀松山藩(奈良県宇陀市)の大名となりました。
でも、4代の頃、お家騒動が起き、信武は自死してしまいました。
信休が5代藩主として認められましたが、
丹波柏原藩(兵庫県丹波市柏原)に2万石で移封されました。
そしてそのまま、明治維新を迎えています。

では、へ戻りー


二の丸へと向かいます。


踊り場をいくつか挟んだ緩やかな石段をー

二の丸の石垣に沿って反時計回りに登りー



二の丸下の分岐。

写真右へ行くと本丸、天守。
またその前に、写真左の石段へ向かいます。




石段を上がった先が二の丸跡になります。

長谷川秀一邸跡の平らな空間。

長谷川秀一は、信長の小姓としてキャリアをスタートしました。
目立った活躍は、安土城が完成して以降。
奉行衆として織田政権を支えました。
本能寺の変のときは家康の饗応役として境にいました。
変後、家康一行に同行、尾張熱田までの道案内を無事勤めました。
秀吉側の大名として武功を上げ続けましたが、
文禄の役で朝鮮に渡り、苦戦の最中、病死したそうです。

開けた空間の奥にー

これまでの石垣とは積み方が異なる石垣があります。
ここは、織田信長の本廟(霊廟)です。


本廟の中は立入禁止です。
外から覗くだけ。


お正月のすぐあとだったので、注連飾りがありました。

天正11年(1583)2月、羽柴秀吉によって建立されました。
ご存じの通り、本能寺の変直後、光秀らは必死で探しましたが、
信長の遺骨の一片すら発見できませんでした。
なので、信長の太刀や烏帽子、直垂(ひたたれ)などが埋葬されました。

の二の丸下分岐に戻り、天守へ向かいます。


細い通路を抜けて行くとー



針葉樹がぽこぽこ生えた開けた場所に出ます。
本丸跡です。

グリーンシーズンはこんな感じ。

  

本丸跡の解説板。

本丸跡

天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。
東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。
昭和16平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34m×南北約24mの範囲で基盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。
7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもありました。
4~6寸(12~18cm)の柱を6尺5寸(約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。

礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かりました。
豊臣秀吉が天正19年(1591)に遺営した内裏の清涼殿等を参考にして復原したのが右の図です。
西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支え高床構造の建物であったと考えられます。
大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。

なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか。
「信長公記』には天主近くに「一天(いってん)の君・万乗(ばんじょう)の主の御座(ござ)御殿」である
御幸(みゆき)御間(おんま)」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。
信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。

北側の石垣を背に、振り返ってみた本丸跡。

北東の出入り口は通行止め。
この先には台所跡や伝米蔵跡があります。


南東出入り口も封鎖。
もし行けたら、左上の伝三の丸跡を見学できるんだけどなぁ。
発掘調査の際、金箔瓦が出土したらしいです。

1687年製の安土城最古の地図に名坂屋敷と記載されています。
信長の死から105年後に作成された地図ですが、
名坂なんて偉い家臣、いたっけ?
「信長公記」には「江雲寺御殿」と云うものが登場します。
催し物、寄合・会合が行われた会所の機能を有していたようです。

その北側の石垣。
石垣の大きな石は結構、ひび割れています。
それは、安土城が焼け落ちたときの熱で割れたとも云われています。

石段を登るとー




本丸取付台跡。

ここは、「く」の字みたいな地形をしています。
北には「八角平」に通じる北出口がありますがー


八角平方面は、ずいぶんと前から立入禁止になっています。


八角平は、太湖=琵琶湖の眺めがとってもよかったそうです。
また、菅屋長頼邸跡だったとの言い伝えもあります。

菅屋長頼は若い頃から信長に仕え、
奉行職も務め、主に政務に当たっていたようです。
本能寺の変の際は長頼も入京していました。
長頼もふたりの子も同日に亡くなりました。

西側に天守跡に至る石段があります。


少し不揃いの石段。


「天主閣址」
天守じゃなく、天主。
ここから表記も「天主」にします。

最後の数段は右に曲がってー



天主跡、安土山山頂に到着です。

雪で一部、よく見えないのでー

グリーンシーズンの映像で。

低い石垣に取り囲まれた空間。
ここは「石蔵」と呼ばれるお城の地下一階です。
ぱっと見、狭く感じます。
安土城郭資料館で見たような、
地上6階、地下1階、5層7階の高層建築物があったとは思えません。

実は、周囲の石垣は元元はもっと高く、厚く積まれていたようです。
その石垣いっぱいに上物が載っていました。
なので、1階の面積は、石蔵の2.5倍くらいあったそうです。


安土城郭資料館で見た模型。
なるほど、なるほど。

礎石は、柱を支えていた石。
全部で111個あります。

お城や塔の中心には大抵、「心柱」と、それを支える礎石があります。
でも、安土城は、中心部分に礎石がありません。
復元模型が吹き抜けになってるのはそのためです。
でも、石の代わりに穴があったそうです。

  

安土城天主台跡の解説板。

安土城天主台跡

安土城の天主は、完成してからわずか3年後の天正10年(1582)6月に焼失してしまいます。
その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦磯と草木の下に埋もれてしまいました。
ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和15年(1940)のことです。
厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。
この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっています。
安土城天主は、記録から地上6階、地下1階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかります。
これ以降、全国に建てられる、高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。

皆様が立っておられる場所は、地下1階部分ですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく二倍半近くありました。
現在では石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。
左の図は、建設当時の天主台を復原したものです。
その規模の雄大さを想像してください。

安土城跡は、国の特別史跡に指定されています。
指定地内では、許可無く史跡の現状を変更することは禁じられています。
違反した者は、法により厳しく罰せられます。
ご来訪いただきました皆様方には、何かとご不便をおかけすることもあろうかと思いますが、貴重な文化遺産である特別史跡の持つ意義をご理解いただき、皆様とともにこの安土城跡を守り伝えられますよう、ご協力をお願いいたします。

また、特別史跡安土城跡のある安土山全体は民有地です。
所有者の御好意により一般に公開されています。
その趣旨を御理解の上、禁煙等火気使用の厳禁、ゴミの持ち帰り等に御協力下さるようお願いします
(原稿作成 滋賀県教育委員合事務局文化財保護課城郭調査担当)

安土山御天主の次第

石くらの高さ十二間余なり。
石くらの内を土蔵に用ひ、是より七重なり。

二重石くらの上、広さ北南へ甘間、西東へ十七間、高さ十六間ま中有り。

柱数式百四本立。
本柱長さ八間、ふとさ二尺五寸、六寸四方、一尺三寸四方木。

御座敷の内、悉く布を着せ黒漆なり。

(中略)

三重め、十二畳敷、花鳥の御絵あり。
則、花鳥の間と申すなり。
(中略)柱数百四十六本立なり

四重め、西百十二間に岩に色々木を遊ばされ、則、岩の間と申すなり。
(中略)柱数九十三本立。

五重め、御絵はなし、
(中略)こ屋の段と申すなり。

六重め、八角四方あり。
外柱は朱なり。
内柱は皆金なり(中略)

上七重め、三間四方、御座敷の内皆金なり。
そとがは是又金なり。(下略)

「信長公記」
(奥野高広・岩沢鷹彦校注の角川文庫版による)




西奥の木段で石垣に上がることができます。
上がってすぐー

見下ろすと、信長廟。


立方体みたいな形だったんだぁ。
合掌。


こっちは南側。


冬は、草も枯れてスッキリ。
でも、足元つるりん注意。


石垣の上を歩いて南西隅へ。
安土の町や鈴鹿山脈をチラ見できます。


南側をとことこ。

南東隅から天主内を。


戻って、北側へ。




北側にはぽつんと木が立ってるだけ。
ちょっと広くなってます。
見晴らしもいいです。

ここが安土山の立ち入れる最高地点です。

北側の眺め。

冬はこんな感じでした。

安土城があった頃、琵琶湖の波打ち際は眼下にありました。
近代、干拓が大いに行われました。
琵琶湖は結構、遠いです。

北側を流れる大同川が流れ込む伊庭内湖。
干拓から取り残されたような湖。


琵琶湖向こうの比良山地はもっと寒々としてました。

ひとりごと

天正10年(1582)の6月2日、本能寺の変が起きました。
安土城が炎上したのは、15日です。
その間に何があったかというとー

変当日の安土城は、蒲生賢秀(がもうかたひで)が留守を預かっていました。
ちなみに信長は、もしものときあらば、城に火を付けて灰燼に帰せと命じていました。
城内には信長の妻や妾、子女らが残っていました。
彼女らを護るため、3日、賢秀は居城の日野城へ共に避難しました。
空になった安土城に明智光秀が入城したのは、5日。
名実共に己が勝者だと印象づけ知らしめるための入城で、あと、城の金銀財宝も大目的でした。
金をすべて味方の兵に分配し、士気をあげようとしました。
さらには、朝廷工作のため、都の朝廷関係者に金をばらまきました。
一説によると、現代の価値で億単位だったとも。
8日、光秀は坂本城へ移動しました。
柴田勝家の南下を警戒しての移動でした。
留守居役は、娘婿の明智秀満。
光秀は翌9日、京都に移動。
朝廷工作に、各地の大名に支持を取り付けようと必死です。
その頃、秀吉は「中国大返し」をやりとげつつ、信長は生きているデマを籠めた手紙をばらまいています。
そして13日、山崎の合戦。
中国大返しの勢いそのままに、羽柴秀吉が光秀を破ります。
14日、秀満、坂本城へ移動。
再び、ほぼ空になっただろう安土城は、15日、突如、炎上します。
出火場所は、安土城天主とみられています。
本丸御殿、二の丸御殿も延焼、焼失しました。
でも、他の部分、摠見寺なども延焼を免れています。

炎上の正確な原因は不明ですが、いくつかの説が考えられています。
まず、明智光秀軍が敗走の際に放火した説。
でも、15日の光秀軍は、坂本城で堀秀政の軍に包囲されていました。
なので、ちょっと違うっぽい。
留守役だった秀満も怪しまれていますが、前日には安土城を去っているので、彼でもないでしょう。
次、織田信雄軍が放火した説。
元になったのは、ルイス・フロイス。
「信雄が暗愚だったので何の理由も無く放火した」と書いたのが出所らしい。
明智の残党をあぶり出すため、城下に放火したら、強風で天主に延焼し…と。
でも、城下に近い麓の建物などは燃えていませんから、これもないかな。
次、落雷説。
木造建築であるお城は、結構、落雷が原因で焼け落ちています。
例えば、徳川幕府が建て直した大阪城とか。
ちなみに、天正10年6月15日の奈良の天気は大雨。
それに、5月24日からずっと降ってたらしい。
落雷はあったかもね。
そして、いま、もっともそれっぽい説が、野盗など、略奪目的で乱入した野盗や土民が放火した説。
京都吉田神社の神主で公卿の吉田兼見が遺した日記「兼見卿記」 に書かれています。
秀満軍が全軍を率い、光秀の応援に向かったとすると、お城は空っぽ、盗り放題です。
侵入者の持っていたたいまつやろうそくが引火してしまったのか…。
それとも、信長憎しの誰かが、チャンスとばかりに放火して溜飲を下げたのかも。

火事の際、天守と繋がった主郭の建物以外、燃えませんでした。
天主は無くなりましたが、お城全体としての機能は維持されてたようです。
なので、光秀の死後も、織田信孝、羽柴秀吉、織田信雄らが、相次いで入城しています。
天下の後継者たるをアピールする目的は光秀と一緒です。

(火事で焼け残ったのは、主に伝○○跡。
伝○○跡しか残っていなかったのに、お城として機能するかな?
やっぱり、余計に伝○○跡はおかしい。)

その後、秀吉が家康・織田信雄連合軍と戦った小牧・長久手の合戦が、秀吉有利で休戦。
秀吉政権が確実視されると、安土城は過去の遺物に。
秀吉は秀次に対し、八幡山城を、安土の目と鼻の距離に築かせます。
八幡山城には、安土城の木材や石材が流用され、城下町の家屋も移転の対象となったそうです。
八幡山城の城下町が栄えるにつれ、安土は寂れ、安土城も事実上、廃城となったのでした。
現在、住所で見ても安土は、滋賀県近江八幡市安土町。
八幡山城跡にはロープウェイで登れちゃったりします。

話は戻りますが、光秀、謀反のなぜ、です。
歴史好きなら、誰でも一度は考えたことがあるだろう、本能寺の変を起こした理由。
怨恨説、野望説、黒幕説、信長非道を止めるため説…、巷にはいろんな説がありますね。

光秀らが生まれ育った環境は、まさに下剋上上等!
そして、人を殺すことのハードルが現在よりも遙かに低かった時代。
人殺しを裁く法律自体、ないか、裁く人・立場によって罪の重さが変化した時代。
まず、それらをベースに考えなければいけません。

信長は、若い頃から、兄弟親戚と戦いってきました。
天下人への道の途中でさえ、妹の夫にも、大事にしてきた家臣からも裏切られ続けました。

「天下布武」の名の下に、本能寺の変直前、天下人となっていた信長。
当時の人人の概念的には、「天」=天皇の、「下」=住まう一帯が「天下」。
つまり、「天下」とは、日本全土ではなく、近畿一円を指しています。
望み通り、近畿一円を手に入れた信長。
さらに武田氏を滅ぼし、領地は圧倒的に増えました。
それでも、日本の半分に届くかどうかってほどでした。
その後、ゲームなどでよく使われる「天下統一」へ大きく舵を切ります。
まぁ、信長自身が「天下統一」って言葉を使ったかどうかは怪しいですが。

天下布武の過程で、将軍さえ追い出し、過激な仏教勢力を退け、増長していく信長。
それでも、「天下人」、すなわち、「天」=天皇の、「下」=部下という意識はありました。
けれど、天下人となった辺りから、信長の驕りは恐怖へと変貌していきます。
気に入らないこと、些細なミスに激しく叱責。
裏切り者に対しては、若い頃のような情けはもうかけない。
その身内を百人単位で首をはねる。
自分を抑えなくてもいい立場になったことで、自分の心を抑えられなくなってしまったかのよう。

戦国時代は、とにかく戦争しないと領地が拡げられません。
日本全土すら、切り取り放題。
でも、源頼朝や足利尊氏など、過去、幕府を開いた人たちは、もっと楽でした。
「将軍」と云う、ある意味、天皇からのお墨付きをもらえさえすれば、天下が転がってきました。
信長も「将軍」をもらって楽にゴールインする道もありました。
けれど、なぜかそれを選択しませんでした。
日本中を焼け野原にする覚悟で望まないと、戦国の世を終わらせられないと思っていたかのよう。
究極の平和主義者。

アクシズを落とし、人が住めない星にしてまで地球を守ろうとした、ガンダムのシャアのよう。

後に、信長の意志を継いだ秀吉が、日本全土で戦を起こし、日本を手中に収めるんですが。

「天下人」から「天上人」になるのでは?
光秀の目には、そんな信長が、日本の歴代の為政者の中でもヤバい、と映っていたかも。
いまでも結構ヤバいのに、側近を粛清していった秦の始皇帝みたいな苛烈な王になるのでは…。

けれど、信長が誰も信用できないような暴君であったなら、もう少し、延命したでしょう。
たった150人の家来のみで本能寺に宿泊するようなことはしなかったでしょうから。
確かに、京周辺にはもう、敵国もない状態でした。
自分の庭のような感覚だったのでしょう。
千人万人単位の敵が攻めてくる気配でもあれば、そんな身軽な行動はしなかったでしょう。
でも、そんな国は遙か彼方。
京すらもう、自分の庭のような感覚だったでしょうか。
まるで物見遊山な感覚で入京するのも無理はない。

とは云え、当時の本能寺は、要塞のような防衛能力を備えていました。
堀や高い土塀が周囲を取り囲み、ただのお寺ではなかったです。
実際、明智軍は150:13000の圧倒的な兵力差にもかかわらず、攻め落とすのに4時間もかかってます。
また、信長は、二条新御所と云う、さらに防御能力に優れた要塞的なものも有していました。
二条新御所だったら、信忠の援軍などが来るまで守り抜けられたかも。
でも、そちらには泊まらず、本能寺に宿泊したのでした。

さて、天下の信長の手勢がたった150人しかいない状態。
怨恨説で語られる理由がいっぱいある光秀。
彼のなかの「寝た子を起こす」には充分すぎたかもしれません。

ここまで散々尽くしてやったのに、大勢の前で蹴りやがって、ののしって恥かかせやがって!
金ヶ崎で浅井長政に裏切られて逃げたとき、誰のおかげで助かった?
秀吉ばかり注目されてるけど、オレの鉄砲隊も殿(しんがり)勤めてたんだぞ。
四国とか、あんたがやれって云うから、調略したのに、最後の最後にひっくり返して!
丹波を取り上げるだと?
平定にどれだけの血が流れたと思ってんだ?
領地が欲しかったら、自分で切り取れだと。
なんなん、こいつ、この恩知らず! 年下のクセに…。
思い出したけど、安土の天主、金まで取って自慢しまくってるよな、信長。
けど、城に天主建てたの、オレの坂本城の方が全然早いから。
マネしてんじゃねぇよ。!
いろいろ考えてたら、なんか、めっちゃ、腹立ってきた…。
って、おいおい、兵もろくに連れず、余裕こいて京都に泊まりに来てるらしい。
こっち、1万以上いてるし…。
…ん?
これって、神様が行けって云うてくれてる?
おみくじも行け!って書いてるし(出るまで引いたけど)…。
「幸運の女神には前髪しかない」って、宣教師も云ってたな…。
比叡山のときみたいに、なで切りしちゃろか!
(比叡山焼き討ちに積極的だったとみられる内容の書状が見つかってます。)

物騒な話ですが、人は生きていれば殺してやりたいほど憎い相手ができてしまうものです。
つまり、殺人の動機は誰にでもあるのです。
もし、誰にも見つからず、警察にもバレないだろう、都合のいい瞬間が訪れたら…。
僕はその瞬間を「魔が差す」もしくは「間が差す」と呼んでいます。
「間」はエアポケットのようなもの。
歪んだ空間に落ちたり、囚われてしまったら最後、人は踏み外してしまう。
通り魔の「魔」も「間」なんじゃないかと思ったりします。
辞書的には「魔が差す」が正しく、「間が差す」は載ってませんけどね。
光秀も、たまたま魔が差してしまったのでしょう。
信長が150人なんて少数で行動してこなければ、「魔」に魅入られることもなかった。
抵抗できない、「簡単に殺せる」間を、与えてしまったんです、信長自ら。
本能寺の変は、まさに、天下人信長の歴史にぽっかりとできた隙間でした。

信長を殺そうと思う動機のひとつやふたつ、当時の家臣らはみな、持っていたでしょう。
とは云え、普段から信長を殺そうとか思ってなかったと思います。
思ってなかったのに、信長自らが、都合のいい「間」を光秀に与えてしまった格好に。
過去、松永久秀や荒木村重など、信長に愛されていたはずの家臣が謀反したことがありました
彼らは残念ながら間が悪く、成敗されてしまいました。
光秀は彼らの失敗を間近で見ていました。
今回の「間」は、久秀らのときとはまったく違うことに、頭のいい光秀ならすぐに気づいたでしょう。
殺れる…、いまなら、確実に、と。
魔に魅入られた光秀は、歴史の歯車に囚われてしまいました。

命の危機をあまたくぐり抜けてきた信長。
でも、あの日、光秀は、不死身の魔王のような存在を倒せる可能性に気づいてしまった。
頭のいい光秀なら、信長亡き後の展開、筋書きすらも読めてしまったかも。
百手先、二百手先を読む、将棋や囲碁の名人のように、行ける!と。
感情がわっとあふれだし、家臣も驚くほどの叫び声をあげてしまったんじゃないかな。
なんて、想像ですけどね。

でも、松永久秀や荒木村重がもし、まだ生きていたら、本能寺の変の主人公は光秀ではなかったかも。
秀吉も中国遠征していなかったら…。
当時、物見遊山で堺にいた家康だって、戦支度した数千の軍勢を従えていたら…。

本能寺の変の動機なんて、考えたらキリがないんです。
個人のこと、国のこと、民のこと、天皇のこと…。
光秀本人だって、ひとつに絞ることはできなかったかも知れません。
本能寺の変の動機なんて、考えたらキリがないんです。

つまり本能寺の変が起きた最大の理由。

信長を倒せる完璧な状況が発生してしまったこと。

あの天正10年6月2日(1582年6月21日)の払暁にしか、本能寺の変は起こせなかったのです。

きっかけが先。
動機は後から。

お山が好きなみなさんに分かりやすく例えるなら

「そこに信長がいたから」

“Because it's there.”
イギリスの有名な登山家、ジョージ・マロリーの言葉です。
「なぜあなたはエベレストに登りたいのですか?」
記者からの質問に、そう答えました。
“it's there”は、エベレストのこと。
「そこに(エベレストが)あるからさ」は、哲学的な意味で答えたつもりはないと思います。
軽く返したつもりが、いまでは人生訓のようになってます。

なぜ、信長を討つのか?
そこに、(楽勝で討てる)信長がいたからさ。

更に例えるなら、「キジも鳴かずは撃たれまい」か。
本能寺なんかにいないで、離れた安土にでもいたら助かったのに。
茶器とか自慢しに行くから…。
(茶器の価値は信長自身が褒美の品とかに使って自分で釣り上げていたので、ある意味、自画自賛)

織田家臣団のナンバー2だった光秀。
信長に対しては、めっちゃ、媚びへつらっていました。
その下心は、客人にも伝わるくらいだったそうです。
ルイス・フロイスは、光秀のことを悪魔だとか、人望がないとか書いてます。
人を欺く72の方法を会得してるとか、信長の前で平気で嘘泣きするなど。
(光秀がイエズス会に対して悪意を持っていたので、人物評が最悪になったかも。)
家臣団の中でも人望と云うか、人気がなかったんでしょうね。
本能寺の変後、加勢してよって、たくさんの手紙をばらまきました。
でも、ほとんどの武将や大名にスルーされてしまいました。
あの光秀に頭を下げる天下はイヤだなぁ…、って思ったのかな。
それに、信長を正々堂々、正面から打倒したのではなく、暗殺に等しかった。
現代で例えれば、首相や大統領を暗殺した実行犯が国のトップになれないのと一緒。
裏で糸引いた黒幕は別だけど。
織田の天下はすでに、下剋上なんかで入れ替われるほど、小規模じゃなかった。
安土城が、天主が燃えても、織田政権の象徴としてあり続けたのと近いかな。

近年、光秀が細川藤孝・忠興親子に送った手紙が発見され、
「信長殺害は忠興や私の子息の世代に権力を譲り渡すため」
と、理由が書かれていました。
光秀自身も、政権トップの頭のすげ替えだけを望んで決起した可能性もあります。
でも、光秀の娘・玉子の嫁ぎ先の細川家が味方してくれなかったのは意外だったでしょう。
結果、光秀の敗北は決定的となりました。

さてさて。
安土山の話に戻ります。
安土山の山頂は、安土城の天主台で占められています。
三角点はここにはありません。
北に600mほど行った頂にあります。
行ってみたいけど、天主からは行けません。
見学ルートからはずれちゃいけません。
「安土」三角点には興味がないのか、山行記録はあんまりありません。
道はないだろうから、冬枯れしたシーズンなら行けるかも。
立入禁止でなければ、見学ルート上にない城遺跡も訪ねてみたいです。
なお、見学ルート外から城内への立ち入りは禁止されています。

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