へ行こう!
山上ノ丸 | |||||||||||||||||||||
①②③④⑤①② | |||||||||||||||||||||
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①山上ノ丸の二ノ丸から。
標高は、255.6m。
二ノ丸の東側、写真奥に三ノ丸(標高251.8m)があります。
本丸、天守台跡は反対側、西側。
二ノ丸にはしっかりとした休憩所があります。
では、本丸へ。
西へ向かう広めの石段を上がったらー
②広々とした本丸。
標高は260.2m。
本丸のパノラマ。
本丸跡 |
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鳥取城の山上ノ丸は、山頂部を数段に切り開いて構築し、その中央部の一段高い場所にあたるこの地が本丸である。 |
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昭和60年9月 |
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ホントにお山の上って感じの気持ちのいい広場。
天守台に向かって歩いていたらー
③先の解説に出てきた「車井戸」がありました。
史跡鳥取城附太閤ヶ平 |
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池田長吉が慶長7年(1602)から行った城内大改築の時に掘った井戸と伝えられています。 |
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平成15年3月 |
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秀吉との籠城戦の時はなかったのかな。
④北側のベンチのとこに、なにかの解説板。
本陣山 |
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目の前、1.5km先に見える山を本陣山(標高252m)といいます。 |
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平成27年7月 鳥取市教育委員会 |
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あのお山が本陣山かなぁ。
ここからだと、手前の尾根を写真右から左へ歩き、写真左から山頂に上がる感じ。
秀吉はこの距離まで鳥取城に迫って陣を敷いたのかぁ。
山伝いの抜け道を完全に塞いだわけだ。
麓をぐるっと取り囲み、この距離で城ににらみを効かせる…。
そう云えば、秀吉が天下を取った北条との小田原合戦。
山上に一夜城を築いて、めちゃプレッシャーかけて勝ったんだよなぁ。
この鳥取城での戦が役に立ったのかも。
本丸の西端に、こんもりとした一画があります。
天守台です。
鉄製の階段を上がるとー
⑤天守台、天守櫓跡です。
大体20m四方の広さです。
南東の隅に付櫓があり、当時はそこから出入りしていたそう。
また、真ん中ぐらいに「穴蔵」と呼ばれた貯蔵庫もあったらしい。
と云うことは、ここ全面に天守が建っていたわけじゃないのかな。
なんか、凹んだ場所があります。
天守の跡なら、地階があったのかな。
って云うか、天守自体は、元禄5年(1692)に落雷を受けて焼失。
以降、一度も再建されていません。
詳しい縄張りは誰も分からないかも。
鳥取城の古地図にはー
山上ノ丸はこんな風に描かれています。
天守が築かれた頃は、天守台いっぱいに建ってたのかも。
日本海を望む東側に、パノラマ展望盤があります。
東側の眺め。
画面を横切る川は「千代川」。
鳥取平野を南から北へ流れ下っています。
鳥取県で最も高い建物、鳥取県立中央病院(55.5m)も一応、写ってます。
(ちなみに、愛媛のは、今治の国際ホテルで101.7m)
北の方をよく見るとー
鳥取砂丘がチラ見できました。
今回の写真は全部、スマホで撮りました。
光学ズームがなくても、ここまでアップで撮れました。
東奥にあるのは、
島が浮かんでるくらい、大きい池。
「池」と名の付く湖沼の中で、日本最大の広さ!
元元は海だったけど、砂丘が発達して池になったよう。
南側、鳥取市街地方面のパノラマ。
鳥取市街はコンパクト。
レンタサイクルで名所を走り回れるくらいです。
仕事終わり、ホテルの自転車で毎夕、走り回ってました。
砂丘まで行ったときはめっちゃ、疲れたけど (^_^;)
すぐ下は、見学制限エリアの出丸跡。
ロープで規制してあります。
天守台の石垣が不安定だったりして危険なのかな。
ベンチとかあるし、昔は普通に行けたんだろう。
鳥取駅周辺。
写真中央の通りが国道53号線で、アーケード街になってます。
その道の奥が鳥取駅。
僕は駅南口のホテルに泊まり、近所のイオンで晩ご飯買ったりしてました。
と云うわけで、この時点で午後6時前。
日没も迫ってきました。
真っ暗な山道を下るのも危ないので、早早に下山しました。
②本丸を通りー
二ノ丸へー
そして、登城路を戻りました。
山道、まぁまぁ、薄暗かったです。
木の根とか、つまづかないように、ゆっくり急いで下りました。
ちなみに、クマさんは出ませんでした、ふぅ。
①山下ノ丸に無事下山後、大手方面に下ってみました。
坂の下は三の丸なんですが、曲輪いっぱいに、なんか建ってます。
県立鳥取西高校でした。
一気に夜景っぽくなってきました。
大手路は工事中なので、まっすぐ外には出られません。
仁風閣の南側をずーっと歩いて博物館方面に戻ります。
②北ノ御門跡の登城路。
すっかり街灯が必要な時間になってました。
と云うわけで、鳥取城・久松山のお山歩でした。
ああ、また行きたいなぁ…。
ひとりごと | ||
山頂は現在、天守台しか残っていません。 天守と云えば、最近、天守復元に対する考え方、基準を文化庁が緩和したそうですね。 そもそも、お城の建築絵図面なんて、門外不出、秘中の秘です。 復元をあきらざるをえなかった、多くの市町村からのプレッシャーが相当あったんでしょう。 ちなみに、大阪城や名古屋城、鉄筋コンクリート造りのお城が日本中に建てられた頃は、もっと緩かったけどね。 天守台からの眺めは、天気よくなかったり、夕暮れ近かったりしたけど、よかったです。 さて、日没が迫り、急いで下山しました。 麓に降りたら、街灯がまぶしい時間帯がすぐ来ました。 仁風閣には次の日の夕方、行きました。 この出張以来、鳥取には行けていません。 と云うわけで、鳥取城・久松山の回、終了です。 では。 |
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