へ行こう!
山下ノ丸 | |||||||||||||||
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲ | |||||||||||||||
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①仕事終わりの夕暮れに急いで登った鳥取城。
あいにくの曇天でしたが。
街から見ると、城山の
鳥取駅からも約2km、徒歩30分くらいの距離間です。
市街地の裏山って感じです。
麓には県庁や裁判所、県警、赤十字病院などがあったりします。
有名な鳥取砂丘はお山の向こう側。
山頂に立てば、日本海も指呼の距離に拡がります。
麓と山上で大きく分けることができます。
麓の城跡は「
山頂の曲輪群の呼び名は、「
まずは、山下ノ丸をお山歩します。
山下ノ丸の手前には、城を守るようにお堀が真横に通っていてー
②堀端の東の端っこに、吉川
経家は、戦国時代の鳥取城主でした。
肖像画がないので、子孫の顔を参考にしたんだそう。
後ろ姿。
吉川経家の鳥取籠城と自刃のこと |
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天正9年、天下制覇を目指す織田信長の先鋒として、羽柴秀吉の山陰侵攻が必至となりました。 |
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平成5年10月 鳥取市 | ||
吉川経家公銅像建立委員会 |
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「鳥取城の渇殺」は、地獄絵図となった籠城戦で有名な戦です。
西へ延びる山の手通りを、お堀を右に見ながら進むとー
③お堀に架かる、復元ほやほやの、鳥取城の大手橋「
全長約37m、全幅約6m。
約1年10ヶ月の復元工事を経て、2018年9月30日、約120年ぶりによみがえった橋です。
往時はこの橋を渡る大手路でまっすぐ城中に行けたようです。
でも、現在は橋の向こう側が工事中で、ここから入城できません。
ちなみに、初めて鳥取城を訪ねたときは、この橋自体もまだ工事中でした。
今回はすでに完成してたけど、通行禁止のままでした。
鳥取城は現在、「大手登城路復元整備事業」が進行中です。
この擬宝珠橋に続き、大手門の「中ノ御門表門」 の復元を終えています。
次は、大手門「中ノ御門渡櫓」を復元するんだそう。
すべてが完成するのは、2020年代後半の予定。
それまでは、この橋を渡っての入城は無理かなぁ。
なので、さらに西へ、堀沿いに歩きます。
「久松山ろく史跡 見て歩き」
④「宝珠橋」を渡り、北ノ御門跡のこの登城路から堀内=城内へ、そしてお山へ向かいます。
ゆるい坂道の先、左側には鳥取県博物館があったりします。
⑤登城道は正面突き当たりを右折します。
左には県立博物館があります。
その前に右にはー
西洋的な門があります。
門の奥に、整備された庭園に囲まれた洋館が見えます。
城跡に場違いなほどキレイな庭園は「宝隆院庭園」。
庭園に合ってる洋館は「
⑥「仁風閣」の正面玄関。
明治40年(1907)5月に建造された、国の重要文化財。
白亜の木造瓦葺2階建て。
櫛形破風の棟飾りがユニーク。
内部も和洋折衷の意匠が凝らされた装飾の部屋があります。
「御座所」や「謁見所」、皇太子宿舎だった当時の名称で呼ばれています。
訪問時、閉館間際で慌ただしく見学したので、内部の撮影はできませんでした。
あと、鳥取城の「日本100名城スタンプ」、受付で押せます。
重要文化財 仁風閣 |
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鳥取市東町2丁目121番地 |
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この建物は、明治40年5月、時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際し、ご宿舎として、もと鳥取藩主池田仲博公爵によって、扇御殿跡に建てられた。 |
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どこかで見た覚えのある背面。
1階も2階も、庭園を楽しめるようなベランダがあります。
2階のベランダはガラス戸で囲まれています。
雪景色も、部屋の暖炉でぬくぬくと眺められたんでしょう。
庭は、背面側に広く、池もあります。
見覚えないですか?
実はこの庭園、映画「るろうに剣心」の撮影に使われました。
全部で5作制作された映画版。
その第1作、香川照之演じる悪者・武田観柳の館として登場。
多勢に無勢の死地の敵地に討ち入り、派手に敵を倒しまくる…。
クライマックスの大剣戟シーンがこのお庭で撮影されました。
ロケ地だと知らずに訪ねたので、感動しました。
庭園の名の「宝隆院」は、幕末時の11代藩主・池田
宝隆院のために、文久3年(1863)、12代目藩主・池田
庭園から城山、三階櫓の石垣を見上げて。
では、⑤に戻り、登城道へ。
正面の石垣の前を右折するとー
⑦復元された西坂下御門 。
史跡鳥取城跡附太閤ヶ平 |
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現在見られる石垣で造られた城(近世城郭)の姿は、天正10年(1582)から嘉永2年(1849)の約270年の間に段階的に整備されたものです。 |
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鳥取市教育委員会 |
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西坂下御門は、慶応3年(1867)の創建。
昭和50年(1975)に突風で倒壊し、復元されました。
緩やかな石段。
仁風閣を見下ろして。
イノシシは分かるけど、クマも!?
情報提供が貼られてないので、最近は出てない様子。
⑧左に角っと曲がります。
石段の斜度が急になり、石垣もあって、城跡らしさが出てきました。
⑨
右には、二ノ丸、角櫓跡の石垣。
石垣の石の色が途中で変わっています。
造改築したときに石を積み増しされた名残でしょう。
その石垣の麓にー
五輪塔が3基あります。
エピソード紹介【鳥取城ものがたり】 |
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城主でもないのに、ご先祖のお墓が鳥取城内に残され、折々お参りすることも許されていたとすれば、それには特別な事情があったのではないでしょうか。 |
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鳥取市教育委員会 |
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お墓を城内に残すなんて、入城当時は住民に気を使わないとならないくらい、経営に苦労したのかな。
⑩石垣の角から二ノ丸へ。
この石段は昔のものじゃない雰囲気。
⑪石段を登り切ったところに小さな橋があり、その先はー
森の中に消える石段がありました。
嘉永2年(1849)に二ノ丸が拡張された際に築かれた登石垣です。
登石垣を左に見ながら進むとー
⑫二ノ丸です。
鳥取市内を見下ろせます。
少し歩くと、右に下る場所があります。
⑬通路が裏御門跡です。
写真右の出っ張ったところは、角櫓跡。
史跡鳥取城跡附太閤ヶ平 |
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ニノ丸には、江戸時代の前期には、藩主が住み、家老などが政治を司る、藩主の御殿がありました。 |
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鳥取市教育委員会 | ||
江戸時代末期の二ノ丸の主な施設 |
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①三階櫓 山頂の天守が焼失した後の鳥取城の象徴。(現在地) |
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裏御門跡を挟んだ向こう側にはー
⑭真四角く石積みされたー
三階櫓跡があります。
史跡鳥取城跡附太閤ヶ平 |
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昭和18年(1943)9月10日、鳥取地方を震度6の大地震(死者1210人)が襲い、鳥取城の石垣も各所で崩れました。 |
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鳥取市教育委員会 |
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櫓跡。
櫓は破去される前に撮られた写真です。
左が三階櫓、中央が走櫓、右が菱櫓。
⑮二ノ丸の西端にあるのが、菱櫓
菱櫓跡 |
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菱櫓は平面形が菱形に構築された櫓台の上に建物が建てられ、建物も菱形であった。 |
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平成15年3月 |
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菱形って云うより、正方形…。
ここから山沿いへ行くとー
⑯お宮がありました。
エピソード紹介【鳥取城ものがたり】 |
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日本の城には、「ヌシ」と呼ばれる妖怪や神様の伝説がつきものです。 |
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鳥取市教育委員会 |
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狛狐コレクション、 阿1。
阿2。
吽1。
吽2。
入山前にご挨拶、合掌。
神社脇の石段を登りー
二ノ丸の走櫓跡を右下に見ながら、狭い通路を行くとー
⑰山頂(山上ノ丸)登山口です。
さらに、「天球丸」への分岐も兼ねています。
分岐から南へまっすぐ伸びている石垣。
天球丸と云う不思議な名前の曲輪に向かってみます。
⑱天球丸は自体は平らで、一見何もなさそう…。
でも、曲輪の端に行って下を覗くとー
丸い石垣がありました。
横から見ると、まるで巨大な球体が石垣からせり出してきたような形。
国指定史跡鳥取城跡附太閤ヶ平 |
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慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、鳥取城の城主になった池田長吉の姉、天球院に由来する曲輪(平地)である。 |
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平成9年2月 |
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天球丸の名は、球体の石垣があるからだと思ってました。
実際は、あの石垣は巻石垣と云って、復元されたものです。
文化4年(1807)頃、背後の石垣が膨らみ始めたんだそうです。
崩落を防止するために、球面に石垣が築かれたそうです。
⑲下山後ですが、巻石垣を下から見られる場所に行きました。
球体の下にも帯状に石垣が巻いてあります。
史跡鳥取城跡附太閤ヶ平 |
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概要 | ||
目の前の石垣で区画された曲輪を天球丸といいます。 |
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第1段階 戦国時代末~江戸時代初頃 |
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鳥取城に石垣が導入されるのは、有名な吉川経家の籠城戦の後に城主となった宮部継潤から後のこと(1500~)です。 |
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江戸時代初頃~中頃 |
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鳥取城は元和3年(1617)頃から鳥取藩32万石の居城として再整備されます。 |
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江戸時代中頃~幕末 | ||
江戸時代の中頃を過ぎたあたりから、第2段階で新たな石場が築き足された場所を中心に、石垣がはらみだし、崩落の恐れが出てきました。 |
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石垣修復工事について |
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天球丸一帯は、昭和18年(1943)の鳥取大地震や平成12年(2000)の鳥取県西部地震などで、江戸時代からの保全方法では維持できないほど、石垣の劣化が進んでしまいました。 |
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ひとりごと | ||
いきなり、鳥取県のお山って…って、感じで、ホント、すみません。 実は、ここでお話ししてないだけで、出張とか旅行先で「ちょこっと山歩」してました。 とは云え、紹介するつもりがないお山歩中でも、いつもと同じように撮るし、考えたりしています。 最近、しばらくサボってた「お山へ行こう!」の編集を数年ぶりに復活しました。 前置きが長くなりましたが、ここからは鳥取城の歴史です。 鳥取城は、16世紀中頃に、山名 けれど、残された重臣らは毛利に通じ、吉川経家を新たな城主として迎え入れ、抵抗スタート。 一方、攻め手の秀吉軍は、籠城勢に対し、苛烈な兵糧攻めを展開します。 この戦いは、後世、「鳥取の ある者が飢餓に耐えかね、柵を乗り越え、脱走しようとしました。 そんな阿鼻叫喚が渦巻く地獄絵図に、吉川経家は開城、降伏を決断しました。 餓鬼のような姿で生き延びていたものたちに、秀吉は、大釜で炊いた粥を振る舞いました。 栄養を分解したり、運んだりするミネラルやビタミンすら、欠乏した飢餓状態の体。 お山で遭難して1週間とか長いこと、なにも食べてない、そういう人にご飯とかたくさんあげたら、逆に死ぬよってことです。 じゃあ、どうすればいいか。 ちなみに、「頓死」を知らない一部の人が毒入り粥説を唱えたりしてますが、間違いです。 鳥取城にはそんな悲惨な歴史がありました。 さて、戦後、鳥取城には、秀吉の側近として山陰戦に参加していた宮部継潤が入城。 次の城主は、池田恒興の三男・長吉。 元和3年(1617)、長吉の息子・長幸が備中松山に移封されると、今度は、同じ池田恒興の子孫の池田光政が因幡・伯耆32万5,000石の大封で新城主となりました。 寛永9年(1632)、同じ池田姓(池田恒興の子孫)の城主だった岡山藩との間で、城主を入れ替える国替えが行われました。 これ以降、鳥取城は、鳥取池田家が幕末まで安泰して12代にわたり治め続けました。 親徳川家だった鳥取藩でしたが、明治維新の動乱では新政府側に付きました。 以上、トップページで説明しきれなかった鳥取城の歴史でした。 |
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