鳥取城の久松山
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山下ノ丸
距離 約800m
徒歩
下記写真の場所


仕事終わりの夕暮れに急いで登った鳥取城。
あいにくの曇天でしたが。

街から見ると、城山の久松山(きゅうしょうざん)はこんな姿です。

鳥取駅からも約2km、徒歩30分くらいの距離間です。
市街地の裏山って感じです。
麓には県庁や裁判所、県警、赤十字病院などがあったりします。

有名な鳥取砂丘はお山の向こう側。
山頂に立てば、日本海も指呼の距離に拡がります。


麓と山上で大きく分けることができます。
麓の城跡は「山下ノ丸(さんげのまる)」と呼ばれています。
山頂の曲輪群の呼び名は、「山上ノ丸(さんじょうのまる)」です。

まずは、山下ノ丸をお山歩します。

山下ノ丸の手前には、城を守るようにお堀が真横に通っていてー




堀端の東の端っこに、吉川経家(つねいえ)公の銅像があります。
経家は、戦国時代の鳥取城主でした。


肖像画がないので、子孫の顔を参考にしたんだそう。


後ろ姿。

吉川経家の鳥取籠城と自刃のこと

 天正9年、天下制覇を目指す織田信長の先鋒として、羽柴秀吉の山陰侵攻が必至となりました。
この情勢に対応して、鳥取城を守る軍勢は、吉川の一門につながる有力な武将の派遣を毛利方に懇請しました。
山陰方面の総大将・吉川元春はこれにこたえて、石見国福光城主・吉川経安の嫡男経家を鳥取城の城将に任命し、経家はこの年の3月、部下4百余人を率いて鳥取城に入城しました。
 羽柴秀吉はこの年の7月、2万の大軍を率いて鳥取城に押し寄せ、帝釋山(太閤ヶ平)に本陣を置き、日本海から鳥取平野、久松山の東側にかけ、約20キロメートルに及ぶ大包囲陣を敷いて、徹底した兵糧攻めをしました。
 鳥取城に籠った2千の兵と民は、毛利方からの救援と食糧の補給を期待し、吉川元春も数回にわたり食糧の送り込みを行いましたが、秀吉方の厳重な遮断により一粒の米も搬入できず、8月以降、次第に飢えて来ました。
 そして、9月、10月になると、すべての食糧を食いつくし、遂には人肉を食するという地獄さながらの状態になりました。
世に言う「鳥取城の渇殺」であります。
 経家は遂に意を決して、秀吉の開城の求めに応じました。
この時秀吉は、
「経家公は、連れて来た兵と共に芸州に帰られたい」
とすすめましたが、経家は、
「すべての責は城将たる自分にある」
として、兵と民の生命を救って10月25日未明、城中広間において、見事な自刃をいたしました。
時に年35歳。
その潔い最期は、武人の鑑として歴史に高く評価されています。
 経家が死に臨み、4人の子に遺した次の手紙は、その清々しい心事を物語るものとして、いつまでも人の心を打つものがあります。

「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候 ひようろうつきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきヽあるべく候 かしこ
天正九年十月二十五日 つね家
あちやこ かめしゆ かめ五 とく五
まいる 申し給へ」

平成5年10月 鳥取市

吉川経家公銅像建立委員会

「鳥取城の渇殺」は、地獄絵図となった籠城戦で有名な戦です。

西へ延びる山の手通りを、お堀を右に見ながら進むとー



お堀に架かる、復元ほやほやの、鳥取城の大手橋「擬宝珠橋(ぎぼしばし)」。
全長約37m、全幅約6m。
約1年10ヶ月の復元工事を経て、2018年9月30日、約120年ぶりによみがえった橋です。


往時はこの橋を渡る大手路でまっすぐ城中に行けたようです。
でも、現在は橋の向こう側が工事中で、ここから入城できません。

ちなみに、初めて鳥取城を訪ねたときは、この橋自体もまだ工事中でした。
今回はすでに完成してたけど、通行禁止のままでした。

鳥取城は現在、「大手登城路復元整備事業」が進行中です。
この擬宝珠橋に続き、大手門の「中ノ御門表門」 の復元を終えています。
次は、大手門「中ノ御門渡櫓」を復元するんだそう。
すべてが完成するのは、2020年代後半の予定。
それまでは、この橋を渡っての入城は無理かなぁ。

なので、さらに西へ、堀沿いに歩きます。

  

「久松山ろく史跡 見て歩き」




「宝珠橋」を渡り、北ノ御門跡のこの登城路から堀内=城内へ、そしてお山へ向かいます。
ゆるい坂道の先、左側には鳥取県博物館があったりします。




登城道は正面突き当たりを右折します。
左には県立博物館があります。

その前に右にはー


西洋的な門があります。
門の奥に、整備された庭園に囲まれた洋館が見えます。


城跡に場違いなほどキレイな庭園は「宝隆院庭園」。
庭園に合ってる洋館は「仁風閣(じんぷうかく)」と云います。




「仁風閣」の正面玄関。

明治40年(1907)5月に建造された、国の重要文化財。
白亜の木造瓦葺2階建て。
櫛形破風の棟飾りがユニーク。

内部も和洋折衷の意匠が凝らされた装飾の部屋があります。
「御座所」や「謁見所」、皇太子宿舎だった当時の名称で呼ばれています。

訪問時、閉館間際で慌ただしく見学したので、内部の撮影はできませんでした。

あと、鳥取城の「日本100名城スタンプ」、受付で押せます。

重要文化財 仁風閣

鳥取市東町2丁目121番地
昭和48年6月2日指定

 この建物は、明治40年5月、時の皇太子殿下(のちの大正天皇)の山陰行啓に際し、ご宿舎として、もと鳥取藩主池田仲博公爵によって、扇御殿跡に建てられた。
 設計は明治建築最高の傑作である赤坂離宮の設計者として有名な宮廷建築家片山東熊博士によるものと伝えられ、工部大学校での片山東熊の後輩にあたる鳥取市出身の建築家橋本平蔵が補佐し、地元の工匠浜田芳蔵が施工にあたったものであり、フレンチルネッサンス様式を基調とする木造二階建の本格的洋風建築で、中国地方屈指の明治建築として著名である。
 櫛形ペディメントを主要なモチーフにした端正な正面のたたずまいに、屋上の棟飾りや階段室の八角尖塔屋根が変化を与え、背面一・二階吹抜けのベランダは、軽快で美しい構成を示している。
 内部は御座所・謁見所・御食堂の主要室をはじめとして、1・2階の各室とも室内装飾に意が払われ、マントルピース(暖炉飾り)・カーテンボックス・シャンデリアなどの細部意匠にも見るべきものが多い。
 殿下ご到着の当日に、鳥取県下ではじめて電灯が灯されるなど明治の文明開化を華々しくうたいあげた記念建築でもある。
 「仁風閣」の名は、行啓に随行した東郷平八郎元帥によって命名されたもので、その直筆の額は、二階ホールに現在も掲げられている。


どこかで見た覚えのある背面。

1階も2階も、庭園を楽しめるようなベランダがあります。
2階のベランダはガラス戸で囲まれています。
雪景色も、部屋の暖炉でぬくぬくと眺められたんでしょう。


庭は、背面側に広く、池もあります。
見覚えないですか?


実はこの庭園、映画「るろうに剣心」の撮影に使われました。
全部で5作制作された映画版。
その第1作、香川照之演じる悪者・武田観柳の館として登場。
多勢に無勢の死地の敵地に討ち入り、派手に敵を倒しまくる…。
クライマックスの大剣戟シーンがこのお庭で撮影されました。

ロケ地だと知らずに訪ねたので、感動しました。

庭園の名の「宝隆院」は、幕末時の11代藩主・池田慶栄(よしたか)の夫人・聡姫の晩年の名「宝隆院」から。
宝隆院のために、文久3年(1863)、12代目藩主・池田慶徳(よしのり)が造営したものです。


庭園から城山、三階櫓の石垣を見上げて。


では、に戻り、登城道へ。
正面の石垣の前を右折するとー



復元された西坂下御門 。

  

史跡鳥取城跡附太閤ヶ平
近世城郭としての鳥取城

 現在見られる石垣で造られた城(近世城郭)の姿は、天正10年(1582)から嘉永2年(1849)の約270年の間に段階的に整備されたものです。
特に元和3年(1617)に入場した池田光政は、それまで5~6万石規模であった城を32万石の居城として一新します。
中ノ御門から続く大手登城路や、天球丸・二の丸も整備し、城の主要な部分はこの時に完成しました。
城内には、幕府の規制で3階以上の建物はありませんが、二ノ丸には創建時、最新の建築様式だった層塔型(正方形の櫓台に築かれ、上階を下階より規則的に小さくして積み上げた櫓。初期のものは装飾がないデザインが特徴)の三階櫓が、山陰地方で初めて建てられました。
 その後の鳥取城は、藩主の生活と藩の役所を担った御殿を中心に増改築されていきます。
江戸時代の終わりには、二ノ丸や三の丸が大きく拡張されたほか、三の丸の南側には凶作に備えて籾を保管する倉庫群が造られました。
 城内の建物は、明治時代に大半が取り壊され、残った石垣も昭和18年(1943)の鳥取大地震で多くが崩れました。
城の建物は残っていませんが、宝扇庵(旧化粧の間)や倒壊後復元された中仕切門が当時の面影を今に伝えています。

鳥取市教育委員会


西坂下御門は、慶応3年(1867)の創建。
昭和50年(1975)に突風で倒壊し、復元されました。


緩やかな石段。


仁風閣を見下ろして。


イノシシは分かるけど、クマも!?
情報提供が貼られてないので、最近は出てない様子。




左に角っと曲がります。
石段の斜度が急になり、石垣もあって、城跡らしさが出てきました。




右膳(うぜん)ノ丸。


右には、二ノ丸、角櫓跡の石垣。

石垣の石の色が途中で変わっています。
造改築したときに石を積み増しされた名残でしょう。

その石垣の麓にー


五輪塔が3基あります。

  

エピソード紹介【鳥取城ものがたり】
澤市場屋(さわいちばや)古墓(こぼ)

 城主でもないのに、ご先祖のお墓が鳥取城内に残され、折々お参りすることも許されていたとすれば、それには特別な事情があったのではないでしょうか。
 近世末期に拡張された二ノ丸の直下にあたるこの場所に残された3基の五輪塔は、鳥取城下の町人・澤市場屋の先祖のお墓とされています。
ご子孫の記録によると、以前からあったこのお墓を澤市場屋亀右衛門が墓所として整備したのは、嘉永3年(1850)のことです。
ちょうど鳥取城の二ノ丸の拡張工事の時期(弘化4年(1847)~嘉永3年)と同じ時期であり、鳥取城の整備と時期をあわせて行われたのかもしれません。
 岡島正義の『鳥府志』の、「澤市場屋の古墳」の項目によれば、以前は現在の県立鳥取西高等学校の山際あたりにあったといいます。
いずれかの時期に現在地に移されたのか、あるいは『鳥府志』の記述と違いもとからこの場所にあったのかは定かではありませんが、いずれにしても幕末の鳥取城内唯一の町人のお墓だったと思われます。

鳥取市教育委員会

お墓を城内に残すなんて、入城当時は住民に気を使わないとならないくらい、経営に苦労したのかな。




石垣の角から二ノ丸へ。


この石段は昔のものじゃない雰囲気。




石段を登り切ったところに小さな橋があり、その先はー


森の中に消える石段がありました。
嘉永2年(1849)に二ノ丸が拡張された際に築かれた登石垣です。

登石垣を左に見ながら進むとー




二ノ丸です。

鳥取市内を見下ろせます。


少し歩くと、右に下る場所があります。




通路が裏御門跡です。

写真右の出っ張ったところは、角櫓跡。

  

史跡鳥取城跡附太閤ヶ平
ニノ丸跡

 ニノ丸には、江戸時代の前期には、藩主が住み、家老などが政治を司る、藩主の御殿がありました。
鳥取池田家三代・吉泰の時代に御殿が三ノ丸に移され、享保5年(1720)の石黒大火で全体が焼失しました。
三階櫓などは早く復旧されましたが、御殿は幕末の弘化3年(1846)になるまで再建されませんでした。
二ノ丸は鳥取城を象徴する場所として市民に親しまれており、昭和32年(1957)に国の史跡に指定された後、最初に石垣の修復工事が行われました。

鳥取市教育委員会

江戸時代末期の二ノ丸の主な施設

①三階櫓 山頂の天守が焼失した後の鳥取城の象徴。(現在地)
②走櫓 家老などが政務を司るための場所。
③菱櫓 二層の、菱形平面の櫓。
④隅櫓 江戸時代末期の拡張にともなって建てられた。
⑤鉄御門 藩主の住む二ノ丸の正門。
⑥二ノ丸御殿(表向)藩の公の事務・行事の場。
⑦〃(中奥) 藩主の通常の生活空間。
⑧〃(奥向) 側室などの住む藩主家の私的空間。
⑨裏御門 二ノ丸の裏門。
江戸時代後期までは粗略な門だったが、江戸末に渡櫓門に改修された。

裏御門跡を挟んだ向こう側にはー



真四角く石積みされたー


三階櫓跡があります。

  

史跡鳥取城跡附太閤ヶ平
二ノ丸三階櫓石垣の修復

昭和18年(1943)9月10日、鳥取地方を震度6の大地震(死者1210人)が襲い、鳥取城の石垣も各所で崩れました。
昭和34年(1959)、崩れた石垣のうち最初に始まったのが、二ノ丸三階櫓の石垣の修復でした。
崩れた部分を復元するため、その周辺も一度解体して再び積み上げるという大規模な工事でしたが、江戸時代と同様の技術で全工程が人力で行われ、工期は7年間に及びました。

鳥取市教育委員会


櫓跡。


櫓は破去される前に撮られた写真です。
左が三階櫓、中央が走櫓、右が菱櫓。




二ノ丸の西端にあるのが、菱櫓

  

菱櫓跡

 菱櫓は平面形が菱形に構築された櫓台の上に建物が建てられ、建物も菱形であった。
 櫓台には二層の櫓が建ち1階は4間四方であった。
 二ノ丸の西南隅の三階櫓と東南隅のこの菱櫓の対比で鳥取城の風格を現わしており、明治維新までその偉容を誇っていた。

平成15年3月
文化庁 鳥取市教育委員会


菱形って云うより、正方形…。

ここから山沿いへ行くとー




お宮がありました。

  

エピソード紹介【鳥取城ものがたり】
殿さまとキツネ

 日本の城には、「ヌシ」と呼ばれる妖怪や神様の伝説がつきものです。
 彼らは、時には人を怖がらせたり、時には城や殿様を守ったりする、不思議な存在です。
 兵庫の姫路城には「長壁姫」というヌシがいたといわれますし、福島の猪苗代城には亀姫というヌシが、愛媛の松山城には化け狸の隠神刑部というヌシがいました。
 鳥取城のヌシは、桂蔵坊(慶蔵坊ともいう)というキツネでした。
桂蔵坊については、殿さまの用事を果たすために飛脚として江戸まで使いに行ったという話や、殿さまのかわいがっていた鳥を食べてしまった部下のキツネを処罰し、殿さまにお詫びを言った話が伝わっています。
 また、殿さまも、自分の部屋(この説明板の場所あたり)の床下に住み着いたキツネの親子にエサをやってかわいがっていたそうです。
鳥取城の中坂の中腹には、その桂蔵坊をまつった稲荷神社があり、城がなくなったあとも、久松山を訪れる人々を見守っています。

鳥取市教育委員会


狛狐コレクション、 阿1。


阿2。


吽1。


吽2。


入山前にご挨拶、合掌。


神社脇の石段を登りー

二ノ丸の走櫓跡を右下に見ながら、狭い通路を行くとー




山頂(山上ノ丸)登山口です。
さらに、「天球丸」への分岐も兼ねています。


分岐から南へまっすぐ伸びている石垣。


天球丸と云う不思議な名前の曲輪に向かってみます。




天球丸は自体は平らで、一見何もなさそう…。
でも、曲輪の端に行って下を覗くとー


丸い石垣がありました。


横から見ると、まるで巨大な球体が石垣からせり出してきたような形。

  

国指定史跡鳥取城跡附太閤ヶ平
天球丸跡

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、鳥取城の城主になった池田長吉の姉、天球院に由来する曲輪(平地)である。
若桜鬼ヶ城主山崎家盛の夫人であった天球院が、山崎家を去って長吉のもとに寄寓し、この曲輪に造られた居館に住んだことから名付けられたという。
 天球丸には、風呂屋御門と呼ばれる門、東側隅に建てられた3層の櫓などがあったことが古絵図などから知られている。
3層櫓は享保5年(1720)の大火(石黒火事)によって焼失し、その後は再建されることはなかったようである。
幕末頃には、武術の稽古所、御蔵が建てられたことが記録に残されている。
 平成2年からの石垣修理に伴う発掘調査で、古い石垣や石段、三層櫓や御蔵の礎石が発見された。
現在地の地下から発見された石垣、石段は、これまでその存在が知られていなかった遺構である。
高さは約5メートルで、長吉入城以前に構築された小規模な曲輪をめぐる石垣の一部である。
その後、大規模な曲輪の拡張とともに、天球丸の前身となるこの石垣は埋められ、現在に残る曲輪が造られたものと考えられる。
 発掘調査では、瓦、唐津焼、伊万里焼等の陶磁器、鎹(かすがい)、簪(かんざし)、煙管(きせる)等の金属製品が出土した。
また、少量ではあるが中国、朝鮮半島製の陶磁器も発見されている。

平成9年2月
文部省 鳥取市教育委員会

天球丸の名は、球体の石垣があるからだと思ってました。
実際は、あの石垣は巻石垣と云って、復元されたものです。
文化4年(1807)頃、背後の石垣が膨らみ始めたんだそうです。
崩落を防止するために、球面に石垣が築かれたそうです。



下山後ですが、巻石垣を下から見られる場所に行きました。


球体の下にも帯状に石垣が巻いてあります。

  

史跡鳥取城跡附太閤ヶ平
天球丸の構造変遷

概要

 目の前の石垣で区画された曲輪を天球丸といいます。
平成2年(1990)から平成22年(2010)にかけて実施した石垣修復工事とそれに伴う調査によって、天球丸の構造的な変化の様子が明らかになりました。
 天球丸は、山下ノ丸の最高所(標高51m)に位置し、東側を巨大な空堀で守った軍事的に最も重要な場所で、戦国時代末から江戸時代初頃までは、現在の姿と異なっていました。
天球丸が現在のように広い敷地となるのは、鳥取域が鳥取藩32万石の居城として整備される元和3年(1617)から後のことです。
もとの石垣の上に同じ高さの石垣を築くという立体的な手法で拡張されていますが、この手法は全国でも確認例の少ない珍しいものです。
当初、三階櫓などが建てられたようですが、享保5年(1720)の石黒大火で焼失しました。
 その後、天球丸周辺は石垣の緩みやはらみがひどくなり、補強石垣や盛土によって石垣を保全する工事が行われました。
特に盛土保全は他に類例がない大規模なもので、江戸時代の鳥取城の姿や石垣の保全方法を考える上で、貴重な発見となりました。

第1段階 戦国時代末~江戸時代初頃

 鳥取城に石垣が導入されるのは、有名な吉川経家の籠城戦の後に城主となった宮部継潤から後のこと(1500~)です。
天球丸に相当する曲輪は、宮部氏以降の池田長󐮷父子期(~1632)までに、左図のように中央部が2段、東側が3段の曲輪が整備されたようです。
東側3段の石垣は、隣接する曲輪と同時に整備されていました。
格曲輪は狭く、自然地形の制約を受けて平面側は不整形です。
これは、その後に大きく整備された四角い区画のニノ丸とは一線を画しています。
この特長は、三ノ丸上段から天球丸一帯にかけて今でも見られ、この付近が近世城郭鳥取城の古い時期の姿を留めているとえられます。

江戸時代初頃~中頃

 鳥取城は元和3年(1617)頃から鳥取藩32万石の居城として再整備されます。
天球丸は、階段状の狭い曲線の石垣を巧みに利用して一つの曲輪として拡張されました。
第1段階に最上段にあった石垣の多くは、石材の再利用のため、壊されていました。
拡張は外側の石垣をそのまま利用しており、石垣の稜線は新しく築き足した場所で写真のように「く」字に折れ曲がり、平面形は前段階と同じく不整形でした。
拡張された東端の1段高くなった所に三階曲輪が建てられました。

江戸時代中頃~幕末

 江戸時代の中頃を過ぎたあたりから、第2段階で新たな石場が築き足された場所を中心に、石垣がはらみだし、崩落の恐れが出てきました。
そのため、天球丸一帯では、解体修理の他、補強石垣や盛土によって石垣崩落を防く手法が取られました。
石垣を保全する方法として、解体して積み直す以外の方法が、江戸時代から色々と行われていたことを示す好例といえます。

石垣修復工事について

 天球丸一帯は、昭和18年(1943)の鳥取大地震や平成12年(2000)の鳥取県西部地震などで、江戸時代からの保全方法では維持できないほど、石垣の劣化が進んでしまいました。
中には既に崩れた個所や石垣面が波打った場所などもありました。
史跡の保存と安全確保のため、平成2年(1990)から平成22年(2010)にかけて修復工事を行いました。
この工事は、天球丸一帯の石垣が持っていた構造的な欠品を抜本的に解決するという考えのもと行われました。
そのため、「く」字状の石垣破線を補正したり、小さな石垣石の取り換えなどを行い、もとの石垣の外形ラインを継承しつつ強固な石垣として修復しました。なお、石垣の修復工事と一緒に幕末期の景観復元を中心とした遺構表示も行っています。
 鳥取城では、石積の積上げ作業だけでなく道具やその修繕にも伝統的な技術を採用しています。
天球丸一帯の石垣は、自然石もしくは粗割石を用いていますので、主に玄能と呼ばれる大きなハンマーを使って、新石材の石形などを調整しています。
玄能は定期的に鍛冶作業で修繕します。

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ひとりごと

いきなり、鳥取県のお山って…って、感じで、ホント、すみません。

実は、ここでお話ししてないだけで、出張とか旅行先で「ちょこっと山歩」してました。
この鳥取城みたいに、仕事終わりの短時間にでも登れる、ささやかなお山ばかりですが。
お話しするほどのことでは…的な、ホントにささやかな内容ばかり。
なので、自分だけの思い出にしてました。

とは云え、紹介するつもりがないお山歩中でも、いつもと同じように撮るし、考えたりしています。
「誰かに紹介するのが前提のお山歩」を十数年続けてきました。
だから、どこ行っても、自然にそういう風になっちゃいます。
写真を撮りながら、その写真に添えるキャプション、紹介文を考えてしまうし、逆に、キャプションに合わせた写真を撮ったりしてしまいます。
(お山歩じゃなくても、例えば、マンホールやノラネコなんかでも)
なので、鳥取城も、紹介しようと思えばできるよ状態ではありました。

最近、しばらくサボってた「お山へ行こう!」の編集を数年ぶりに復活しました。
再開したついでに、自分のなかに勝手にあった「縛り」も撤回して行こうかなと思いました。
県外の、海の向こうのお山の話があってもいいんじゃないかって。
ま、いろいろやった方が、自分的には楽しいし。
お山歩っていう方向性さえ、見失わなければいいかなって。

前置きが長くなりましたが、ここからは鳥取城の歴史です。

鳥取城は、16世紀中頃に、山名誠通(のぶみち)が砦を築いたのが初めです。
織田信長の命を受けた羽柴秀吉に攻め落とされるまで、ほぼ、山名氏の本拠地であり続けました。
鳥取城は、秀吉により、2度、攻撃を受けています。
1度目のときの城主は山名豊国(とよくに)
山名家は、中国東部地方の大大名でしたが、この頃は、但馬国=山陰地方の大名でした。
豊国は、戦国時代の他の武将同様、家系も領地も複雑な環境で生きてきました。
昔、毛利方の吉川輝元に攻められて降伏したときは、毛利輝元の「元」の字をもらい、「元豊」と名乗っていたこともありました。
でも、織田信長と接近したあとは、「元」を捨て、「豊国」に改名しました。
それもあってか、天正8年(1573)に秀吉に攻められたとき、一時的に籠城したものの、単身、秀吉の陣を訪ね、降伏します。

けれど、残された重臣らは毛利に通じ、吉川経家を新たな城主として迎え入れ、抵抗スタート。
その結果、天正9年(1574)、2度目の鳥取城攻めが始まります。
吉川経家は籠城策を採りました。
大雪に見舞われる冬が始まるまでの数ヶ月間を耐えることができれば、自然と敵は撤退するだろう、そう考えての策でした。

一方、攻め手の秀吉軍は、籠城勢に対し、苛烈な兵糧攻めを展開します。
鳥取城の周囲を完全包囲し、毛利からの支援ルートを完璧に断ちました。
また、戦に先駆け、秀吉は、鳥取城下の米を高値で買い占める、兵糧不足を狙った裏工作を行ってもいました。
鳥取城の城兵らは、秀吉の策とも知らず、城内の米をほいほいと売って金に換えてしまいました。
その結果、20日分の兵糧しか、残っていなかったそうです。
さらに秀吉は、戦闘開始直後、周辺の農民ら2000人以上を城の中へと追い込みます。
城内には4000人近い人間がこもることとなりました。
瞬く間に、城の兵糧は尽きてしまいました。
数週間で、家畜も、木も草も、食べられるものはすべて食べ尽くされました。
3ヵ月後には餓死者が続出。
死者の肉を食べるほどの飢餓状態に達したのでした。
鳥取城内は、まさに地獄絵図だったと伝えられています。

この戦いは、後世、「鳥取の渇え殺し(かつえごろし)」と呼ばれる、戦国時代最悪の籠城戦となりました。

ある者が飢餓に耐えかね、柵を乗り越え、脱走しようとしました。
すぐさま、攻め手から鉄砲を撃ちかけられ、転落しました。
そうして瀕死の状態となると、周囲にいた者たちが、刃物を手にわっと群がりました。
人々は、まだ命のあるうちに体をバラバラに解体。
人肉を取り合い始めました。
人肉の中でも脳みそはもっとも栄養があると云い、大勢が首を取り合いました。
その騒動で命を落とした者もいたそうです。
当然、その遺体もすぐさま、解体されてしまうのでした。

そんな阿鼻叫喚が渦巻く地獄絵図に、吉川経家は開城、降伏を決断しました。
秀吉は経家を許すつもりでした。
経家を招いた重臣らの切腹で済ませるつもりでした。
けれど、経家は降伏の責任を取って自害することを譲らず、秀吉は信長の許可も得た上で、許可しました。

餓鬼のような姿で生き延びていたものたちに、秀吉は、大釜で炊いた粥を振る舞いました。
そのとき、粥を腹一杯、食した大勢が死んでしまうという、異常事態が発生しました。
いわゆる「頓死」、医学的には「リフィーディング(再栄養)症候群」と云います。

栄養を分解したり、運んだりするミネラルやビタミンすら、欠乏した飢餓状態の体。
そこに、急激に栄養が入ってくれば、栄養を分解するために必要な物質を、脳や心臓、重要な臓器の細胞からも集めようとします。
で、最悪、呼吸筋麻痺や急性心不全を引き起こされるのです。
空腹なときにいっぱいご飯食べるとお腹が痛くなるとか、そんなレベルじゃないです。

お山で遭難して1週間とか長いこと、なにも食べてない、そういう人にご飯とかたくさんあげたら、逆に死ぬよってことです。

じゃあ、どうすればいいか。
お茶碗1〜2杯のお粥を、1日かけて食べるくらい、ゆっくり。
じゃないと危険です。

ちなみに、「頓死」を知らない一部の人が毒入り粥説を唱えたりしてますが、間違いです。
非常事態に慌てた秀吉は、食事を少しずつ与えるように命じていますから。

鳥取城にはそんな悲惨な歴史がありました。

さて、戦後、鳥取城には、秀吉の側近として山陰戦に参加していた宮部継潤が入城。
石垣や天守を築き、近世城郭へと城の姿は一新されました。
けれど、息子の長房が関ヶ原の戦いで西軍に与したため、東軍勢の攻撃を受け、開城しました。

次の城主は、池田恒興の三男・長吉。
徳川家康より、因幡国4郡・6万石を与えられ、鳥取藩に加増移封されて来ました。
ちなみに、長吉は12歳の時に羽柴秀吉の養子になっていて、羽柴長吉と名乗っていました。
慶長5年(1600)、家康による会津征伐に参陣し、そのまま、東軍として関ヶ原の役に突入。
鳥取城入城時、羽柴姓を捨て、池田姓に戻しました。

元和3年(1617)、長吉の息子・長幸が備中松山に移封されると、今度は、同じ池田恒興の子孫の池田光政が因幡・伯耆32万5,000石の大封で新城主となりました。
光政は、鳥取城をさら拡張し、併せて城下町の整備も行いました。
現在の城跡の景観は、ほぼ、この時代に整いました。
また、この当時の鳥取藩の規模と現在の鳥取県域は、ほぼ同サイズです。

寛永9年(1632)、同じ池田姓(池田恒興の子孫)の城主だった岡山藩との間で、城主を入れ替える国替えが行われました。
岡山藩主・池田忠雄が亡くなり、池田光仲はわずか3歳で家督を継ぐこととなりました。
幕府は年齢を理由に改易=所領の没収をも目論みました。
けれど、光仲が徳川家康のひ孫と云うルーツのおかげで、改易は避けることができました。
父・忠雄の生みの親が徳川家康の次女の督姫だったのです。
とは云え、わずか3歳では国を治めることができないのは明白だったので、鳥取に転封となりました。
代わりに、鳥取城主だった、光仲にとっては従兄にあたる池田光政が岡山に入りました。

これ以降、鳥取城は、鳥取池田家が幕末まで安泰して12代にわたり治め続けました。

親徳川家だった鳥取藩でしたが、明治維新の動乱では新政府側に付きました。

以上、トップページで説明しきれなかった鳥取城の歴史でした。

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