鳥取市オフィシャルサイトより
久松山(きゅうしょうざん)
鳥取県鳥取市
標高263m
別名・ 城山
※三角点はありません。

久松山は、鳥取城の城山で、鳥取市民に愛されているお山です。

山陰海岸ジオパーク。

中国地方の脊梁山地が日本海に没する、その稜線の先端、半島状に突出した部分に位置しています。

地質的には、日本列島が大陸の一部だった時代(新生代古第三紀)の花崗岩類でできています。

お山の南北に走る断層の影響で隆起し、さらに、鳥取平野を形成した千代川によって南西麓を削られ、平野と山裾の境が明確な、標高のわりに険しい姿になりました。

すぐ北の沿岸部は、鳥取砂丘が拡がっています。

室町・戦国時代に、急峻な自然地形を要害として利用し、山城が築かれました。
16世紀中頃に、山名誠通が砦を築いたのが初めです。
織田信長の命を受けた羽柴秀吉に攻められ、城主・山名豊国は単身、降伏。
けれど、重臣らは毛利から吉川経家を新たな城主として迎え入れました。
そうして始まった2度目の鳥取城攻めは、秀吉軍の苛烈な兵糧攻めに遭いました。
後世、「鳥取の渇え殺し(かつえごろし)」と呼ばれる、戦国時代最悪の籠城戦となりました。
吉川経家の自刃で開城し、終戦。
鳥取城には宮部継潤が入城し、新たに石垣や天守が築かれ、近世城郭へと一新されました。
次に城が拡張されたのは、池田光政の代でした。
併せて城下町の整備も行われました。
現在の城跡の景観は、ほぼ、光政時代に整いました。
また、この当時の鳥取藩と現在の鳥取県域は、ほぼ同規模だったりします。
その後、同じ池田恒興の子孫だった岡山姫路城と鳥取城の城主が入れ替わる、異例な国替えが行われました。
池田光仲が新城主となり、以降、鳥取池田家は幕末まで12代にわたり治め続けました。

鳥取池田家は、徳川家康を遠祖に持つ家系でした。
そのため、親藩に準ずる特別待遇を幕府から受けていました。
外様大名でありながら、松平の姓を名乗ることも許されていました。
城山の「久松山」の名の由来は、松平家が久しく栄えることを願って付けられた、と云われています。

天守は、元禄5年(1692)、落雷により焼失しました。
以降、再建されないまま、現在に至ります。

明治維新後は、他県の城同様に、陸軍の施設として再利用されました。
明治8年(1875)、不要な71棟の建物が解体撤去されました。
明治12年(1879)に陸軍が撤退すると、二ノ丸にあった三階櫓などの大型建造物も次々に破去されました。

明治22年(1889)、三の丸が鳥取県に無償賞与され、尋常中学校が建ちました。
現在は、鳥取県立鳥取西高等学校となっています。

久松山が市民に開放されたのは、昭和11年(1936)でした。

昭和44年(1969)~昭和50年(1975)の間、麓と山頂を結ぶ久松ロープウェイが運航していました。

鳥取城は、天主があった久松山山上の「山上(さんじょう)ノ丸」と、御殿や政庁があった麓の「山下(さんげ)ノ丸」に別れています。

山下ノ丸の二ノ丸にある登山口がメインですが、他にも複数、登山ルートが設けられています。
羽柴秀吉が陣を築いた本陣山とを結ぶ遊歩道もあります。

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