神南山
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男神南へ
距離 約1.3km
標高差 約160m
距離 約300m
標高差 約60m
距離 約1.6km
標高差 約100m
林道・農道・私道
徒歩
下記写真の場所
水場
見晴らしあり


次は男神南=新谷神南へ。
稜線鞍部の登山口から。
右が山頂への林道。
左は南斜面に下る林道。


「神南山頂方面 猫穴線 →」


林道は終点までクルマで行く事もできます。




ここで林道と分かれます。

「一般車通行禁止」の看板の後ろにー


登山道があります。
ちょっと分かりづらいけど。

登り始めたらー


地籍調査の図根点がありました。


見た目は三角点の石と似てるけど。
真新しいから、石の角がはっきりしてる。


紹介しておいてなんですが…。
実はこの道、ちゃんとした登山道じゃなかった…。




1m半くらいの土手を登る羽目に。


土手の上は、で別れた林道から分岐してきた道に出ました。
林道を歩いて来るよりかは近道ですけど。


そのまま、その道をたどって歩きます。


小さくジグザグって登りー




尾根の上へ。




「ここからは、山頂まで約500m
ちょっと厳しいですよ
下腹に力を入れて一踏ん張りしましょう。」




左から道が合流してきました。
地図にも載ってる道です。


でも、その道はあんまり、明瞭じゃないです。


尾根に沿って歩きます。


軽く下ってー


また登り。




こう云う、なにげない分岐が困る。
道標とかもないし。
取りあえず、よく踏まれてる、右の道を進みます。




大きな岩と白い杭が現れました。


これはまたあの図根点。


図根点も三角点を基本に設置されるので、三角点の一種。
この図根点には「大洲市」って彫ってあります。

図根点がある大岩の後ろはー


大きな岩がゴロゴロと露頭しています。


通称「強盗亀」が潜んだ岩屋でした。

池田亀五郎の洞窟

新谷生まれの池田亀五郎は明治時代末期、大洲周辺の4郡を荒らしまわった大泥棒として知られ、その名は全国警察年鑑にも見られる。
一般には強盗亀(ごうどがめ)と称され、当時里唄にも歌われたほどである。
警察の捜査の厳しい時はこの洞窟で寝起きしていたと伝えられている。

平成3年 新谷地区コミュニティ推進委員会
財団法人新谷公益会


大岩が折り重なっています。
穴を覗いてみましたがー


看板では「洞窟」ってあるけど、そんな深さはまったくないです。


岩屋がせいぜいだと思います。


まだまだ登ります。




日当たりのいい場所にでました。


左に道が別れます。
これも、地図に載ってない道。
山頂はまっすぐ登ってる方の道で。


「ここまで来ればやったも同じもう一息
よく頑張りましたネー」


いよいよ…。




小さな祠やベンチが道の脇に。


おお、ついに山頂か?
…と辺りをキョロキョロしたけど、三角点はここにはありません。


「神南山大権現」通称・弥勒さんの祠がありました。
よく見ると、巨石の上にあります。
この辺りは「カンナミ様」と呼ばれています。


合掌。


登山会の銘が入った柱が数本。
その向こう側はー

北向きのパノラマが拡がっています。
このルートでここが一番、見晴らしがいい場所です。

大洲盆地の東側を見下ろせます。


北向かいにあるのは妙見山や感応寺山、壺神山系の山山。


真下に見えたのは、新谷中と帝京第五高のグラウンド。


こちらは、大洲インター付近から五郎周辺。
蛇行する肱川を目で追うとー


長浜の河口まで見通せました。


さて、祠の脇を更に奥へと進みます。


右側に石碑のようなものがあったりするけどー


更に進むとー




男神南・新谷神南山山頂に到着しました!


「ここが神南山の山頂で
標高654mです。
東京スカイツリーは634mですが
20m下に見えませんか?」


ベンチの脇に三角点。


「新立」三等三角点。
標高は、654.16mです。


奥のベンチの前に石仏。


風化して輪郭も定かではありません。
合掌。

さてさて。

帰りはどうしよう…。

と、悩んでいたらー


踏み跡がまだまだ西へ、続いているのが目に入りました。
ひとまず、どこまで行けるか、進んでみました。


道が下りだしてすぐ右の土手にお地蔵様や小祠。




道がいよいよ、勢いよく下り始めました。
踏み跡は右にカーブしますが、それとは別に左に赤テープがいっぱい。


土肥からの登山道が尾根伝いに登ってきてるようです。

そっちに下るとバイクを駐めた場所に戻れないのでー


右へカーブして下る道へ。




100mほど下ると(比高は40m弱)、広場のような場所に降り立ちました。
広場のような場所は、で別れた林道の終点でした。


踏み跡はまだまっすぐ下ってます。
パラ基地ぐらいまで下れるのかな?


これ以上、クルマが間違って進入しないように、柵がありました。


林道の終点には、いつもの案内看板。


「神南山登山道 山頂へ0.3km」


下ってきた坂道を振り返り見上げて。

林道をこの終点まで来れば、山頂まで残すところ300mほど。
これ、最初から知ってたら、バイクでここまで乗り付けたかも。


林道を歩いて戻りました。




右にちょこっと登った場所にー


「権現の水」


訪問時はそんなに水がなくて、飲めるほどキレイじゃなかったです。

権現の水

この水は神南山の頂上付近にあって古来より涸れることのない珍しい水脈である。
「権現の水」と命名された銘水である。

平成3年 新谷地区コミュニティ推進委員会
財団法人新谷公益会




正直、路面はそんなに荒れてなかったです。
これなら原付でも普通に走って行けそうです。




道が右に別れます。
この右に登った道は、で出会った道です。


「← 神南山頂上近道」
「ここから山道です
足元に注意してネ…」

の分岐で登山道に入らず、そのまま林道へ。
この分岐で尾根沿いの登山道に向かうのが、ホントは正しいルートでしょうね。


と云うわけで、の分岐まで帰ってきました。

やっぱ、林道を歩くと速い。


稜線鞍部に帰り着きました。

ひとりごと

帰りに気がつきましたが、林道の終点まで乗り付ければ、山頂はあっという間です。
いつもの僕なら、きっとやってました。
でも今回は、家で登山ルートを調べている段階では分かりませんでした。
その代わり、こちらの尾根にはいろいろあるのが分かったので、歩いて登る気、満満でした。

のところは、どう行けばいいのか、ちょっと迷いました。
ここが登山口ですよ、みたいな看板がないので、大抵の方は普通に林道を行かれると思います。
でも、普段、道がはっきりしないお山ばっかり行っている僕。
あんな、けもの道みたいな踏み跡が登山道に見えてしまうのです。
基本、尾根伝いの方が近道ですし。
入ってみると、それなりに道、あったし。
で土手に立ち塞がれるまで、正解だったと思ってました。
実際、正しいルートに比べたら、全然、近道だったし。
と云うか、尾根道は昔からあったんじゃないかな。
後世、林道を尾根を横切る形で通そうとして、残土処理であんな土手ができちゃったんじゃないかな。
で、誰も通らなくなったから、余計に歩きづらくなった、と。
意味も無いもん、あの迂回。

さて、林道の合流分岐を乗り越えつつ、やがて登場するのが「強盗亀の洞窟」。
洞窟と云うより、岩屋です。
当時、「強盗亀」と書いて「ごうどがめ」もしくは「ごどがめ」と地元では呼ばれていました。
強盗亀は、警察の追っ手から逃れるため、油紙を敷いて寝泊まりしていたようです。
それも、なぜか、連れの女性と共に。

強盗亀についても図書館で調べましたが、一言で云うと最悪最低の犯罪者でした。
舞台は、明治20~40年にかけての上浮穴・東宇和・北宇和、喜多の四郡。
逮捕後、裏付捜査で確認できたものだけでも、窃盗23件、強盗(未遂・強盗強姦・強盗傷人を含む)15件、殺人(未遂を含む)2件、傷害1件。
さらに云えば、彼は脱走中の身でした。
現代で云うところの強盗傷害で終身刑を宣告され、福岡の三池炭坑にあった集治監(重刑者を収容するための監獄施設)へ護送中、下関付近で列車から飛び降り、脱走していました。
脱走後は当然無一文。
ここにたどり着く間も数々の盗みなどを働きつつ、帰ってきたのは云うまでもないこと。

本名は、池田亀五郎。
出身は、新谷。
年号がまだ慶応だった1866年(慶応2年)の生まれです。
年号が明治に変わっても当時の農村は天候に左右される時代、貧困層も多い時代です。
彼も貧困の中で育ちました。

現代人はドラマなんかでも、貧困が原因で犯罪者になったかのような、お涙頂戴話が好きです。
でも、維新当時、国民の9割が農業に従事し、日本国民の多くが貧困でした。
だから、明治維新に夢を見たのです。
裕福でも、他人のものを盗む、殺してでも手に入れたい、そんな自我・欲求を抑えられない人はいますから。

とは云え、江戸時代後半から明治にかけて、「通俗道徳」と云う、
「努力をし、良いことをしていれば、必ず報われる。
報われない連中は努力が足りないのだ」
そんな自己責任論が、現代なんかと比べものにならないほど、根強かったのは事実。
追い詰められていた人々は少なくありませんでした。

夜道をひとりで歩けないほど気弱だった子ども時代を経て、大阪に奉公に出ますが、すぐに帰郷。
菜種油売りの行商として独立し、松山でも商売を始めます。
大洲や新谷に比べれば、松山は誘惑だらけの街。
やがて、遊郭にはまり、終いには三津の娼館で知り合った遊女との逃走騒ぎまで。
後年、彼は3人の女性と逃避行し続けますが、当時から女性を巻き込む傾向があったようです。
その後、新谷に帰るのですが、彼の20年にも渡る犯罪歴はここからスタートします。
明治20年(1887)、窃盗の罪で重禁錮7ヵ月、監視6ヵ月を宣告され、松山監獄で服役します。
家に忍び込み、銅貨37、8銭、衣類や雑貨を26点、傘1本、短刀1口を盗んだ罪でした。
出獄後の同24年(1891)、早速、強盗で逮捕されますが、強盗・窃盗など5件の余罪が発覚。
懲役13年の判決を受け、釧路集治監や三池集治監で服役しました。
集治監とは、重刑者を収容するための監獄施設です。
同34年(1901)、皇太子殿下御結婚を受けての政令恩赦により減刑され、刑期満了で出獄。
当時の監獄は改心する場所ではなかったのか、凶暴性を高めた彼は、翌年には、強盗傷害で逮捕され、女性への乱暴の余罪も多数あり、現代で云うところの終身刑を宣告されます。
また三池集治監へ戻されるわけですが、護送中、事件が起きます。
下関付近を走行中だった列車から飛び降り、脱走したのです。
同39年(1906)の夏辺りから、上浮穴・東宇和・北宇和、喜多で、強盗や通り魔事件が頻発しだします。
土地勘のある新谷に、いつしか舞い戻った彼の犯行です。
その前に、下関から新谷まで、強盗や窃盗、通り魔を続けながら帰郷したことは云うまでもありません。

大洲の白滝周辺に夜、不審者が出没すると噂が立ち、警察も必死で捜索に乗り出しますが、逮捕には至りません。
当時の警察は士族(旧武士階級)士族出身者も多く、社会の秩序や治安維持が主目的のような組織です。
市民の生活や安全を守る警察組織は、戦後にできたものです。
捜査能力も低く、なかなか逮捕に至りませんでした。
あとで分かったことですが、脱走以降、逮捕されるまでの5年間、年に100件ものペースで犯行を繰り返していました。
ちなみに、愛媛県警で初めて使用された手配写真は、強盗亀の顔写真です。

テレビもラジオもない時代。
正確な情報が得られないばかりか、嘘とも作り話ともつかぬ噂話が独り歩き。
犯人は一向に捕まらず、凶行による被害が身近に及び、農村を恐怖が覆っていた同40年(1907)。
今度は、肱川を挟んだ白滝の向かい側、柴地区にある瑞林寺に出入りしている怪しい男がいるとの噂が…。
その男は、郡中の資産家の息子・青木松蔵と名乗り、同38年10月から3人の女性と住み込んでいました。
寺の住職もいよいよ怪しく思い、警察に相談。
1月21日午後、長浜警察分署から4人の巡査が逮捕に向かいます。
和服姿に変装し、寺の周囲を見張っていましたが、そこに男が狩猟から帰宅。
早速、異変に気づかれてしまいます。
男は、女性には日本刀を持たせ、自分はピストルで武装して待ち伏せします。
逮捕を急いだふたりの巡査が板戸をこじ開け、部屋に飛び込みます。
が、急に暗い部屋に入って目が幻惑したすきを狙われ、巡査のひとりは左胸を刺され、即死。
もうひとりも左の方や胸、両腕などを切られ、瀕死の重傷。
男と女性らはそのまま逃走してしまいました。
けれど、その夜、3人の女性は男とはぐれてしまい、駐在所に自首しました。
彼女たちの自供により、男が「強盗亀」=池田亀五郎、40歳と判明しました。
一方、彼女らは、25歳、22歳、18歳と若く、共通していたのは貧しい家庭の出身ということでした。

さて、洞窟の前の看板に「当時里唄にも歌われたほどである」とありました。
凶悪犯がなぜ、里唄に?って不思議でした。
でも、調べてみると、強盗亀を直接歌ったものではありませんでした。
巡査が刺殺される事件のあと、寺の住職は取り調べを受けていた警察署で、割腹自殺をして亡くなってしまいます。
知らなかったこととは云え、凶悪犯を寺に1年以上も住まわせ、最後には巡査も死傷させてしまった…。
自責の念にさいなまれた住職は、壁にあったサーベルを手に取り、留置所で自死したのでした。
ちなみに、当時の警察官は、ピストルではなく、サーベルを携帯していました。
そして、次のような手まり歌が唄われたそうです。

「柴の坊さんなぜ死んだ、強盗亀かくしたその罰で、
 長浜分署に呼び出され、白状つらさに腹切って死んだ」

これが件の里唄でした。
後日、瑞林寺には、殉職した巡査の功績を讃える記念碑が建てられました。

殉職者も出、県警本部も乗り出し、大がかりな捜索が行われました。
多分、強盗亀の洞窟は、その当時に隠れ潜んでいたのだと思われます。
このとき、手配写真が活用されました。
写真は明治34年(1901)12月に撮影されたものでした。
やっと、強盗亀が逮捕されたのは、8ヶ月後の9月10日夜9時50分。
新谷の都谷、道の側のタマネギ畑に6名が隠れていました。
そこへ目論見通り、強盗亀がやって来て、一斉に取り囲み、見事、逮捕しました。
逮捕時に所持していたものの中に、「テント」用油紙1枚とあります。
あの洞窟でもテント生活していたのでしょう。
逮捕後、松山監獄に移送された際、彼の顔見たさに見物客が沿道に山をなしたそうです。


逮捕時の写真です、前列中央が強盗亀。
巡査らに囲まれた、まるで記念写真な一枚が残っているなんて…。

逮捕時、潔く洗いざらい自白すると云っていたものの、いざ、死刑判決を受けると上告するが却下され、同41年(1908)2月死刑が確定。
8月24日午前9時15分、広島監獄署内で絞首刑が執行されました。

明治時代の凶悪犯が女性と共に逃避行を続けていたこともあってか、いくつかの小説の題材にもなっていたりします。
ひとつは、西村望の「無宿人の墨縄」。
名前は変えていますが、ほぼ、実録的な内容となっています。
ちなみに、西村望の弟は小説家の西村寿行です。
もうひとつは、あの松本清張の短編小説集「黒地の絵」に収められた「亀五郎犯罪誌」。
清張は、彼の犯行が東京や大阪で行われていたら、もっと有名になっただろうと述べています。
長くなりましたが、ちなみに、をもうひとつ。
ほぼ同時期、池田亀五郎と一文字違いの「池田亀太郎」と云う犯罪者がいました。
彼のあだ名は「出っ歯」で、そこから「出歯亀」と云う言葉が生まれました。
たまに、上記の強盗亀逮捕時の写真を、出歯亀逮捕時の写真と間違えてる人がいるくらい、名前も時代も似ています。
清張の云うように、強盗亀が東京近郊で犯行を繰り返していたら、また違った言葉が生まれていたかも。

と云うことで、強盗亀の話は終わりです。
ああ、思った以上に長く語ってしまった…。

さてさて、お山歩のこと。
神南山は巨石信仰の遺構があることでも有名です。
強盗亀の洞窟、いや、岩屋も、そんな巨石遺構のひとつでしょう。
山頂周辺には、オショブ岩やドンビ岩 と呼ばれる巨石があるようです。
「神南山大権現」通称・弥勒さんの祠が置かれている岩も、巨石のひとつです。
あそこが見晴らしがいいのは、北側に巨石があるせいで、遮る木木が大きく育たないからです。
三角点から西へ、少し下った、お地蔵様みたいな石仏がある岩の塊も、巨石遺構だと考えられています。
林道終点から登った方が、巨石な感じを味わえるでしょう。

あと、新谷からの道の、稲荷神社からちょっと先、舗装が途切れる辺りには、「ヒナルワ駄場盤状石」と呼ばれる盤状の巨石があります。
五十崎町側、黒内坊大師堂から登った東側の中腹に、神南山観音と呼ばれる屹立した巨石もあるようです。

とにかく、この辺りには、巨石がいっぱいあります。
冨士山の山頂にもあったり、少彦名神社のある梁瀬山にはストーンサークルもあったり。
なんだかんだで、50数ヵ所もあるみたいです。
大洲周辺は、巨石と少彦名命に関わるものがとにかくいっぱいあります。
大国主命と旅をしていた途中、病気になった少彦名命。
道後温泉に入って元気になり、こちらにやって来ました。
医業や薬業、農業などの神様の少彦名命。
現代風に云えば、大洲地方に最先端技術をもたらしてくれたのでしょう。
なのに、南麓の肱川を渡ろうとして、急流に流されてしまう。
溺れて亡くなったのではなく、「常世の国」に帰ったのでした。
常世の国は、海の彼方にあるとされる異世界 、神々が住む世界。
「古事記」や「日本書記」的には、熊野の岬から常世の国に帰ったとされています。
大洲にいた旨の記載は当然ありません。
大洲のみでの伝説です。
けれど、少彦名命をお祀りする神社がとてもたくさんあるのも事実です。
不思議なことです。

と云うわけで、神南山のお山歩、終了です。

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