新谷、稲田橋付近から

大洲市藤縄、雲海展望公園から


肱川河口・長浜大橋から

神南山(かんなんざん)
愛媛県大洲市・内子町
標高710.4m(東神南)
標高654.2m(西神南)
別名・男・女神南、表・裏神南、五十崎・新谷神南
▲山頂の三角点
点 名 神南山
種別等級 二等三角点
地形図 松山/大洲
緯 度 33°31′02″.7600
経 度 132°37′58″.4004
標 高 710.35m
所在地 愛媛県喜多郡内子町五十崎乙881番2
愛媛県大洲市菅田町字津字神南乙1番2
▲山頂の三角点
点 名 新立
種別等級 三等三角点
地形図 松山/大洲
緯 度 33°31′10″.1321
経 度 132°36′18″.8722
標 高 654.16m
所在地 愛媛県大洲市新谷字神南山丁369番地

神南山は、(いにしえ)の時代から大洲・内子の人々に敬われ、親しまれてきたお山です。

えひめ森林浴八十八ヵ所、二十八番。

山容は、東西に長く、大洲と内子にまたがってそびえています。
山頂部は、中央の鞍部を挟んでふたつのピークを持っています。
山裾は、肱川本流・支流がぐるっと取り囲んでいます。
河川により周囲の山並みから分断されているため、ある意味、独立峰のような姿です。

地質的には、主に三波川変成コンプレックスの御荷鉾(みかぶ)緑色岩類や苦鉄質片岩から成っています。
これらの岩石は浸食に対して強く、そのため神南山は急峻な地形となっています。

浸食に強い地層でできた神南山は、上空から見ると、肱川や小田川の直進を妨げているように見えます。
西進してきた小田川は神南山に遮られ、南へ転進し、やがて、肱川と合流。
その肱川は北進してきた過程で神南山に立ち塞がれ、流路を西へ変えています。

実際は、肱川は、四国山地が形成される以前から存在していました。
肱川は、隆起した四国山地を下方侵食、V字谷を刻みながら、現在の地形を形成しました。
神南山南側の谷も、西の大洲盆地も肱川に浸食されてできたものです。
神南山の現在の姿は肱川によって削り出されたと云えます。

神南山は東と西にピークがある双耳峰です。
ピークそれぞれは、男・女や表・裏など、二元的な呼び名が付けられています。
そのほか、ピークのある地名、五十崎、新谷を付けた呼び方もされています。
東側のわずかに標高が高いピークが、女神南、五十崎神南。
西側のピークが、男神南、新谷神南などと呼ばれています。

山名の「神南山」には、様々な由来・説があります。
ひとつは、神南山は、大昔、「神奈備(かんなび)」と呼ばれていた、と云うものです。
「神奈備」は、神様が降りたり、昇天したり、神様が宿る神聖なお山や森のことを云います。
ちなみに、「かんなび」自体は「神の森=かみのもり」や「神並び=かみならび」が転じたとする説があります。
その後、「神奈備」が「神嘗(かんなべ)」や「間鍋」に転じ、「神南」になったと云われています。
江戸時代は、「神鍋山」や「神嘗山」と呼ばれていました。
明治生まれの人々も「神嘗山」と呼んでいました。
現在の「神南山」は、明治以降に転じたと考えられます。

伝説では、神南山を神奈備と定めて祭祀を行った神様は、少彦名命(スクナヒコナノミコト)と云われています。
少彦名命は、古事記や日本書紀に登場する日本神話の神様です。
少彦名命の終焉の地が神南山の南麓、肱川沿いです。
大国主命(オオクニヌシノミコト)と共に国堅めの旅をしていた少彦名命。
伊予に国入りして道後温泉を造営したあと、ひとりで南下し、大洲へ来られました。
農耕の経営や病気の治療と薬草の使い方などを人々に教えられました。
(ちなみに、壺神山にまつわる神壺は、少彦名命の薬壺のことです。)
その滞在中に、神南山を神奈備と定めて祭祀を行いました。
その後、少彦名命は肱川を渡ろうとして急流にのまれ、命を落としてしまいました。

山名の由来のふたつ目は、その少彦名命に由来するものです。
少彦名命が山頂で祭祀を行い、神奈備となった神南山は、神がおわすお山となりました。
少彦名命の薬壺伝説がある壺神山や新谷、都谷から見て、神南山は南にあります。
「神様がいる南にある山」で、神南山となったと云うものです。

大洲周辺には巨石崇拝と考えられる巨石遺跡=メンヒルが点在しています。
神南山山頂にも、神宿る聖地を思わせる巨石群が、西の女神南中心に残されています。
三角点の周囲には、数十個の石で築いた石組み=磐座があります。
そのほかには、5個の巨石を組み合わせたオショブ岩や、7mもあるドンビ岩など。
中腹にあるメンヒルは、観音像のように見えるので、「神南観音」と呼ばれています。
麓からも見える巨石は、信仰の対象になっていたと考えられます。
巨石に神様の姿を重ねていたことも、神奈備の由縁と考えられます。

さて、神南山の地下、御荷鉾(みかぶ)系の地層には、キースラガーと呼ばれる層状含銅硫化鉄鉱鉱床が存在します。
黄銅鉱や黄鉄鉱など銅の鉱床は、約150年前、大洲藩主加藤家により、最初の開発が行われました。
鉱山は、大久喜鉱山と呼ばれ、本格的な採掘が始まったのは、昭和になってからです。
昭和9年(1934)、鉱業権が昭和鉱業に譲渡され、設備の機械化が進み、銅の生産力が格段に向上しました。
最盛期だった昭和17年(1942)は、1か月当たり、342トンの銅が生産されました。
けれど、昭和40年(1965)頃から、品位の低下、鉱石の枯渇、安い輸入鉱石の輸入などで採算が悪化。
昭和46年(1971)3月、閉山しました。
閉山時の坑道の距離は75000mに及び、ボーリングは143900mに達していました。

西の新谷・女神南の麓、林道沿いにある稲荷山公園は、美しい紅葉で有名です。
江戸時代、新谷の藩主が参勤交代の帰路、立ち寄った京都の高雄山で紅葉に感動。
苗木を持ち帰り、稲荷神社の境内に植えたのが始まりです。
樹齢200年のカエデを始め、イロハモミジ、カエデ、イチョウなど約3000本が紅葉する様は圧巻です。

山頂部にはパラグライダーの発着場もあります。

西の新谷・女神南に向かう稜線上に「池田亀五郎の洞窟」の看板が立つ、岩屋があります。
池田亀五郎は「強盗亀」と呼ばれた、明治期の犯罪者です。
捜査の手から逃れるため、身を潜めていた岩屋です。
強盗亀は、18歳で刑務所に入って以降、入出獄、脱獄を繰り返し、その度、犯行がエスカレート。
警察官も殺害するなど、最後に逮捕された頃は年に百件のペースで犯行を繰り返していました。

41.7km
大洲 新谷
2.5km 5.9km 内子
3.8km 6km
土肥
五十崎
五十崎神南
新谷神南山
大洲
菅田

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