四国山。
四国山(しこくやま)
愛媛県八幡浜市八代、広瀬
標高129.89m
▲山頂の三角点
点 名 四国山
種別等級 四等三角点
地形図 松山/八幡浜
緯 度 33°26′59″.1976
経 度 132°25′35″.9986
標 高 129.89m
所在地 愛媛県八幡浜市八代乙507-17

「四国山は、龍が頭と尾をつけて胴を思いきり丸めたような恰好をしており、
頭と尾、入口と出口では歩いて五分と掛からない。」
小説「四国山」より。

八幡浜は、四国を横切る中央構造線のすぐ南に位置します。
地質的には「西南日本外帯」の「三波川帯」に属します。
三波川帯は、関東山地から九州まで、中央構造線に沿って幅5~30km、延長800kmに渡って帯状に分布。
日本列島の元となった地質のひとつで、3億年もの歴史を秘めた変成岩地帯です。
三波川帯の岩石はもろく、地滑りが多発する傾向が見られます。
約200万年前頃から、地滑りや浸食で崩れた土砂が谷を埋め始めました。
現在の市街地の地下は、新石器時代以降に土砂が堆積した「沖積層」と呼ばれる地層です。
沖積層の厚さは40mもあり、古い谷地形が厚い地層の下に隠れています。

近世頃の八幡浜の海岸線は、現在よりかなり内陸にありました。
いま、市役所がある辺りも、かつては海や低湿地帯でした。
江戸時代から現代に至るまで、埋立てが繰り返し行なわれました。
現在の市中心部の多くは、人口造成された新しい土地です。

四国山は、「地四国」に彩られた遍路信仰のお山です。
地域の人々は親しみを込めて「お四国山」と呼んでいます。

市街地の南側に位置しています。
四国山が属する山塊を西にたどると、海に突き出した諏訪崎に至ります。
上空から見ると、三角点のある山頂から北に向かって尾根が二股に分かれたU字形になっています。

戦国時代末期、山頂には「今城」と呼ばれる中世城址が築かれていました。
五反田にあった「元城」の支城という位置づけでした。
元城の城主は摂津氏で、今城も摂津氏が居城していました。
摂津氏は、宇和地方を支配していた西園寺氏と通じていました。
西園寺氏には、特に近しい武将らは「西園寺十五将」と呼ばれていました。
元城城主・摂津親安も西園寺十五将のひとりでした。
四国山の今城は、親安の息子・親宗が入っていたとみられます。
当時、敵対関係にあったのは、大洲を本拠地としていた宇都宮氏です。
今城と宇都宮氏の支城・萩森城は、直線距離で2kmしか離れていません。
千丈川を挟んで南と北の勢力がにらみ合っていました。
今城は、萩森城を見張るような場所に位置しています。
U字形に二股に分かれた尾根に曲輪が点在していました。
元城並みに高い防御力を備えた城砦と想像されます。
親安、親宗親子は、西園寺軍として数々の戦に参陣しました。
土佐の一条氏や長宗我部氏、豊後の大友氏らを相手に武功をあげました。
天正3年(1575)には、毛利軍水軍の一員として出陣。
石山本願寺へ兵糧を送るため、大阪に進軍し、織田信長軍とも合戦しました。
天正10年(1582)には、豊臣秀吉の備中高松城攻めに毛利軍の援護部隊として参戦。
天正12年(1584)、宇都宮房綱が加わった長宗我部軍に攻められ、親安は降伏。
元城は落城し、今城もその際、開城したとみられます。

U字の尾根に沿ってミニ四国八十八ヶ所霊場の石仏が多数、祀られています。
「四国山霊場」とも呼ばれている「地四国」=ミニお四国です。
四国山霊場は、幕末の嘉永2年(1849)年3月に設立されました。
古町側にある愛染堂から、広瀬の萬松寺まで、約3kmの巡拝自然遊歩道が設けられています。
四国山霊場を発願したのは、陶器製造業を営んでいた吉岡屋大八です。
大八は、お大師信仰の篤い人物でした。
大八が発願し、河野武衛門等、豪商の支援を得て整備が進みました。
一時、宇和島藩から邪教の疑いをかけられ、禁止命令を受けた時期もありました。
再開後は、本四国霊場に巡拝できない人々の受け皿として広く受け入れられました。
春秋2回の大縁日には南予一円から参詣客が訪れ、賑わいは戦後しばらくまで続きました。
山頂には開設50年記念の石碑が立っています。
戦後すぐに建てられた百年記念の石碑は萬松寺境内にあります。

山頂には、真言宗御室派の四国山建徳寺があります。
明治末期、弘妙尼によって開基されました。
当初は、真言宗醍醐派の布教所として発足。
3代目の住職から御室派に転派。
さらに大洲の出石寺の末寺院として四国山建徳寺と改められました。
現在の堂宇は、昭和22年(1947)3月の焼失後、翌23年に再建されたものです。

そのほか、山頂周辺には、高さ10mの弘法大師像や明治天皇遙拝所があります。
広場から小路を下ると、昔、土俵があった旧相撲場の広場があります。
現在はヤブまみれですが、地元出身、明治時代の大関・朝汐関の記念碑が建っています。
霊場開設50年記念碑建立を記念した相撲大会が明治37年(1904)に開催。
当時、大関ではなかった朝汐が「伊予横綱」として、大観衆を前に土俵入りを執り行いました。

小説「四国山」は、八幡浜市出身の梅原稜子が四国山を舞台に描いた物語です。
昭和59年(1984)、第90回芥川賞の候補作に選出。
翌年、第12回平林たい子文学賞の小説部門を受賞しています。

長浜
保内IC

大洲・八幡浜道
大洲
市役所 八幡浜IC
道の駅 大洲
※1.1km ※1.4km 江戸岡
萬松寺

※=市役所からの距離
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