パノラマ台、展望台がある亀腹の大絶壁
展望台がある山頂
パノラマ台
パノラマ台(ぱのらまだい)
愛媛県久万高原町
標高約760m
※三角点はありません。
展望台(てんぼうだい)
愛媛県久万高原町
標高866m
※三角点はありません。

面河渓(おもごけい)は、愛媛県内随一の優れた渓谷美で有名な景勝地です。

石鎚国定公園(面河渓は第一種特別地域)。

西日本の最高峰・石鎚山の西麓直下にある渓谷です。
隆起し、成長する石鎚山を浸食して誕生したのが面河渓です。

地層的には「三波川変成帯」を基盤としています。
四国の屋根といわれる四国山地のほとんどは三波川帯に属しています。
三波川帯は「中央構造線」の南側・西日本外帯の地層です。
緑色片岩・黒色片岩・珪質片岩など「三波川変成岩類」と云う岩石で構成されています。

但し、石鎚・面河周辺の直径約7kmの領域だけは、安山岩に覆われています。
第三紀(地質時代区分のひとつ)に噴出した溶岩らで、「石鎚層群」と呼ばれています。

遙かに遠い昔、「石鎚化石湖(または古石鎚湖)」なる巨大湖も存在していた石鎚周辺。
その頃の堆積層も残しつつ、隆起し、やがて火山活動が頻発する時代を迎えました。
約1500万年前の石鎚山周辺は火山でした。
当時の石鎚火山は、富士山のような円錐形の成層火山の姿をしていたと考えられています。
同じ頃、高縄山地や皿ヶ嶺、興居島、忽那諸島などでも火山噴火が起きました。
香川の五色台や、小豆島の寒霞渓などの火山活動も同時期です。
石鎚火山の大噴火では大規模火砕流が発生しました。
火砕流や溶岩が大量に堆積しました。
それらは現在、「天狗岳火砕流堆積物」と呼ばれる安山岩類や火山砕屑岩になりました。
三波川帯の上の「石鎚層群」の正体です。
地下のマグマが大量に噴出した結果、地下に巨大な空洞ができました。
空洞はやがて大陥没を引き起こします。
地表に最大で直径約7~8kmもの環状の亀裂が二重に発生。
鍋の底が抜けるよう火山は陥没しました。
阿蘇山のカルデラ地形のような巨大な大陥没でした。
凹地形には、さらに火砕流堆積物が堆積し続けました。
大陥没の名残の地形は、現在の地層図でもはっきり見ることができます。

愛媛県周辺の地層図。
その中央付近に円形の部分があるのが分かりますか。


円形部分のアップ。
縁の内側には、石鎚山の南西方向、二ノ森や堂ヶ森、五代ヶ森が含まれます。
面河渓は円の中心附近にあります。
大部分は、大規模火砕流由来の玄武岩質安山岩 。
面河川沿いの赤い色の部分は花崗岩の分布を表しています。
この花崗岩は、陥没の割れ目に沿って貫入したマグマが固まったものです。
つまり、面河渓の辺りが火山の中心付近だったことを示しています。

石鎚山はその頃の火山活動由来の岩石でできています。
山頂の墓場尾根などの安山岩質の柱状節理は、火砕流噴出物からなる溶結凝灰岩です。
けれど、マグマなどが堆積して高山に成長したわけではありません。
大陥没後、噴火活動はなぜか休止してしまいました。

石鎚山の隆起は、すぐ北を走る中央構造線の影響です。
石鎚山周辺が隆起し始めたのは、第三紀(6500万年前から170万年前)の末です。
第四紀(約260万年前~現代)に入ると、さらに急激に隆起し始めました。
四国を横切る大断層「中央構造線」の活動の影響を受けたものです。
中央構造線の南側は、1年間に2ミリと云うスピードで現在も隆起し続けています。
川之江から西条まで、約50kmも続く「石鎚断層崖」を創造しました。

1500万年もの膨大な年月の間、隆起し、浸食作用も受け続けた石鎚カルデラ。
いまでは、カルデラ地形は痕跡すら消滅しています。
隆起や浸食など、凹地形が失われたものは「コールドロン」と呼ばれます。
面河渓は「石鎚コールドロン」の中央付近に位置します。
数十万年単位の浸食作用で形成されたのが、現在の面河渓です。
断崖に滝、V字谷など、浸食地形が約10kmにも渡って連続しています。

さて、「面河」の名の由来や、いつ頃からそう呼ばれ始めたのかは分かっていません。

戦国時代、面河を含む久万山一帯は、河野氏の支配地でした。
豊臣秀吉の世になり、敗れた河野氏の跡を小早川隆景が継ぎました。
天正15年(1587年)、小早川隆景は筑前に転封。
その跡、大洲藩に入った戸田勝隆が面河までも支配地としました。
慶長8年(1603年)、加藤嘉明が松前に入り、面河は彼の支配地となりました。
以降、面河を含む久万山は松山藩が支配するようになったようです。
江戸時代の237年間は、松山久松松平家が治め続けました。

天明3年(1783)、松山藩山林奉行・加藤勘介が面河を踏査しました。
そのとき詠んだ詠吟が、

加藤勘介、面子山之御用に被参候節、山中之詠吟数首有之候、
中にも白雲農靉靆峰丹来亭見礼波伊予濃高根乃麓那里計里と詠せられ一章、
面白事と感入候

面河に関する文献で最古のものです。

明治30年(1897)、面河渓一帯は国有林に編入されました。
国有林に編入された明治30年、海南新聞に「面河川溯江の記」が掲載されました。
それは面河の名前が広く世に出た瞬間でした。
面河渓が観光地として名を馳せるようになったのは近代になってからです。
その後、面河村小学校の教師として赴任した石丸富太郎が海南新聞に度度、投稿。
面河渓の素晴らしさを大いに喧伝しました。
海南新聞の編集長・田中蛙堂も、彼の熱意に心を動かされたひとりでした。
明治42年(1909)、詩人・画家・登山家・写真家ら松山の文化人らと9人で面河を訪問。
新聞紙上に十数回に渡り、面河の紹介記事が掲載されました。
そしてようやく、面河渓に観光客が訪れるようになりました。
とは云え、当時は公共交通機関は一切無く、みな、徒歩で来るしかありませんでした。
ちなみに、面河渓の入口・関門までバス路線が開通したのは、昭和12年(1937)です。
また、当時は宿もありませんでした。
明治35年(1902)、面河出身の中川梅吉が若山に旅館「紅緑館」を建設。
大正3年(1914)、高知県池川出身の押岡丑弥が亀腹の前に亀腹旅館を建てました
亀腹旅館は、その後、梅吉が経営。
梅吉のあとは、のちに村長になった重見丈太郎が買い取り、渓泉亭を新築しました。
渓泉亭は伊予鉄道に買収され、伊予鉄渓泉亭となった後、面河村に寄贈されました。
宿泊施設としては平成13年(2001)までですが、食堂(面河茶屋)はいまも営業中。
国民宿舎「面河」が完成したのは、昭和41年(1966)。
(平成30年(2018)、解体され、いまは存在していません。)
紅緑館は、昭和25年(1950)、関門に移転。
けれど、昭和35年(1960)、全焼。
その後、再建され、関門ホテルへ。
(関門ホテルも運営停止、建物も解体されました。)
物販や飲食ができるのは、渓泉亭面河茶屋のみです。

昭和8年(1933)、国指定名勝地に指定。
昭和27年(1952) 、面河関門から五色河原までの林道整備スタート。
その2年後の昭和29年(1954)、 鉄砲石川方面の林道整備も始まりました。
昭和30年(1955)、国定公園に指定。
この頃のバス輸送は、御三戸からで、伊予鉄と国鉄バスが相互乗り入れしていました。
(国鉄バスは、昭和59年(1984)に廃止。)
昭和37年(1962)には、伊予鉄単独で、松山発黒森峠経由面河行きが運行開始。
(現在は廃止され、久万営業所発で面河支所に立ち寄る路線のみ運行)
石鎚スカイライン開通は、昭和45年(1970)。

平成2年(1990)、関門に面河山岳博物館が完成、開館しました。
石鎚山のパノラマ模型や動植物の標本など約3,000点の資料を展示。
石鎚山や面河渓の自然、歴史、山岳信仰などについて学ぶことができます。

渓谷を流れる川は、石鎚山を源流とする面河川と、二ノ森源流の鉄砲石川です。
面河川が本流で、見どころは、御来光の滝や虎ヶ滝、紅葉河原、上下熊渕、蓬莱渓など。
最高で110mの垂直の大断崖が200m続く「亀腹」は大迫力です。
キャンプ地も2ヶ所設けてあります。

昔は御来光の滝まで行ける遊歩道が存在していました。
観光客の減少による整備放棄、土砂崩れや洪水など自然災害の影響で廃道となっていました。
近年、地元有志らにより、熊淵橋から霧ヶ迫の滝までの区間が整備されました。
(けれど、西日本豪雨などの被害を受け、虎ヶ滝直前で登山道ごと崩落しています。)

鉄砲石川方面は、紅葉岩、兜岩、布引滝、赤石河原など。
本流側に比べ、観光客はあまり訪れません。
道は林道ですが、一般車両は通行止めで、夏は背の高い草が生えるなどの状態です。)

ふたつの河川の合流部、岩山の山上にパノラマ台や展望台があります。
国民宿舎跡地方面に遊歩道・登山道入口があります。
(本流側第1キャンプ場側にも登山口がありますが、現在は土砂崩れなどで通行止め。)

合流した面河川は、その後、県境を越えると、仁淀川となります。

西条へ
22.3km 則之内
33.1km
久谷 9.4km 面河渓
7.5km 東明神 1.7km
14.1km 関門 土小屋へ
久万 14.1km 8.4km 10.1km
12.4km 通仙橋
御三戸 4.2km 800m 仁淀川町へ
七鳥 仕七川
高知へ

松山駅

JRバス
久万高原線

久万中学校前

久万中学校前

伊予鉄南予バス
面河行き

面河

伊予鉄道 →JR四国(バス)
ブログパーツ
     
inserted by FC2 system