観音嶽、城山、仙波ヶ嶽、砥鹿山は、斎灘に面した小さな山山です。
東三方ヶ森を頂点とする高縄半島の山並みが緩やかに海に没する支脈の先端がこれらの山山です。
地質的にも半島中央の高山とほぼ同一です。
中生代、後期白亜紀の火成岩で成り立っています。
海からの波風による浸食を受けやすく、海に接する部分は崖のように切り立っているのが特徴です。
海岸線に沿った形の国道196号線やJR予讃線が、山裾をかすめたり、あるいはトンネルで貫通しています。
千波ヶ嶽を貫通するトンネルなどはJRが国鉄だった時代に開削されたものです。
大正5年(1916)4月に観音寺~川之江間が開通し、初めて愛媛県内に国鉄が走りました。
今治・菊間・伊予北条経由で松山まで全通したのは、それから11年後の昭和2年(1927)4月3日です。
これにより、高松から松山までの北四国臨海線が全通しました。
今治~松山間は着工から約8年で開通しました。
海岸線に点在する15ヵ所のトンネルは、そのときに開削されたものです。
ちなみに、開通当時は「讃予線」でしたが、昭和5年(1930)4月から「予讃線」と改称されました。
大正15年(1926)、北条駅が開業しました。
その頃の作の「国鐵北條菊間線の歌」に、仙波ヶ嶽(=千波ケ嶽)や波妻の鼻が出てきます。
「国鐵北條菊間線の歌」 重見榮次郎作歌
汽笛の響勇ましく 汽車は菊間を離れたり
右は名に負ぶ齋灘 往き交ふ舟の数しげし
千波ケ嶽のトンネルも またゝく暇に夏ならば
梨の荷出しに賑はへる
浅海驛は寂として 構内人の影もなし
眼下に浪の花匂ふ 海幸ち多き汐出磯
送り迎ふるトンネルの 数よむ暇もあら波の
彼方に望む安居の島
波妻の鼻も横ぎりて 再び望む海の面
左に続く連山は 小杜若に名を得たる
恵良腰折鴻の坂
昔河野氏代々が 牙城置きしと言ひ傅ふ…
仙波ヶ嶽のトンネルは、「千破山隧道」と云い、山名と少し異なっています。
砥鹿山のトンネルは、「砥鹿山隧道」で、山名と同じです。
昭和2年(1927)3月に、鉄道省岡山建設事務所が出版した「松山線建設概要」に鉄道開通当時の写真が掲載されていたので載せておきます。
鋤崎山及燈鹿山隧道連接の実景
菊間伊予北条間は丘陵海に逼れるを以て線路は之等の丘脚を縫いて進み本区間は隧道を算すること十有五に及べり
本写真は其の一部にして前方は鋤崎山隧道(延長88呎余)後方は燈鹿山隧道(延長135呎余)なり
当時は、砥鹿山を「燈鹿山」と書いていたようです。
また当時の鉄道が用いていた単位は「フィート・ポンド法」でした。
「呎」は、フィート。
鋤崎山隧道の長さは、88呎=26.8m、砥鹿山隧道は、135呎=41.1mとなります。
鋤崎山隧道は、砥鹿山隧道と千破山隧道(仙波ヶ嶽トンネル)の間にあるトンネルです。
海岸線に沿って整備された道路(当時は県道)も写っています。
千破山隧道
位置松山線多度津起点85哩65鎖85節 延長310呎2
地質硬花崗岩にして其構造は混凝土及混凝土塊とす
先に書いた通り、「千破山」は仙波ヶ嶽のことです。。
「哩」はマイル、1マイル=約1609.344m、85哩=136.8km。
「鎖」はチェーン、1チェーン=約20.12m、65鎖=1300m。
「節」はリンク、1リンク=約20.12cm、1710.2cm。
合計138119.142m=138.119km。
千破山隧道は、多度津から138.119km地点にあるということです。
「混凝土」は「コンクリート」、「混凝土塊」は「コンクリートブロック」。
ちなみに、鉄道建設時は脱線や衝突など、3件の事故で3人が亡くなっています。
また、工事業者がトンネルや山肌を削った際の土砂を、勝手に海に大量投棄しました。
そのせいで海が汚れてしまったため、怒った漁師に対し、多額の賠償金が払われたそうです。
国道196号線の海岸線部分が開通したのは、明治43年(1910)です。
それまでの旧街道や遍路道は現在のような海岸線ばかりを通ってはいませんでした。
観音嶽や道の駅「風和里」がある辺りの海岸線に道はありましたが、平坦ではなく、山あり浜あり、困難な道のりでした。
遍路も利用した旧街道は、腰折山と新城山の間にある鴻之坂を越えて浅海へ通じるルートでした。
ときに追い剥ぎや妖怪が出没していたそうですが。
浅海から菊間田之尻に至る部分は、仙波ヶ嶽が海岸線を塞いでいました。
そこで旧道は少し内陸に向かい、仙波ヶ嶽の尾根にあった「窓坂峠」を越えて菊間側へと下っていました。
けれど、山越えを嫌い、仙波ヶ嶽沿いの狭い海岸線を無理に通る人も少なくなかったそうです。
なので、明治に入り、測量を重ねた上、海岸線ルートが開通されました。
国道が開通して以降、旧街道は急速に廃れてしまいました。
そのため、窓坂峠の正確な位置は分かっていません。
国道は開通以降、何度も改修、ルート変更を行いながら、現在の海岸線に落ち着きました。
古来より、「灘」の名がつく海域は、海・潮流の流れが速く、波風も激しい所です。
航海が困難な海域を指していて、海難事故も多い海域に使われています。
斎灘は、海上保安庁の水路図誌に掲載されている14ヵ所の「灘」ではありません。
けれど、城山がある波妻の鼻の沖合は、300人もが亡くなった大きな海難事故が過去にも発生しています。
千波ヶ嶽には江戸時代、松山藩の狼煙台がありました。
主に船で行っていた参勤交代の連絡に使われていました。
帰還を告げる狼煙は、岩城島・大三島・大下・岡村・宮崎・種子・菊間・千波ヶ嶽、そして三津番所へと繋がりました。
観音嶽の北にある北条スポーツセンターは、以前は「北条青少年スポーツセンター」と呼ばれていました。
東京オリンピックを契機に日本体育協会が全国に11ヵ所建設したうち、4番目の、四国では唯一、北条に建設された施設です。
昭和43年(1968)に工事が着工、昭和48年(1973)に竣工しました。
水泳プール、屋内外競技場、キャンプ場、250人が寝泊まりできる宿泊棟などが建設されました。
城山には、本館・事務所、体育館がありました。
平成23年(2011)3月末、新体育館が現在の場所に建設され、事務所も移転し、本館は閉鎖されました。
宿泊棟も現在はありません。
本館跡地はしばらく廃墟でしたが、現在は、波妻の鼻わくわくランドという名で、公園整備されています。
開園は、平成29年(2017)で、ターザンロ-プや大型複合遊具が設置されています。
山上と海岸線に沿った遊歩道まで芝生のスロープが繋がっています。
波妻ノ鼻のお山が城山と呼ばれるのは、「波妻城」という名の中世城址があったからです。
曲輪がひとつだけの城砦で、築城年代や城主などは分かってはいません。
地域的にみて、河野氏や来島村上氏の出城だったと思われます。
現在の国道のような街道は通っていなかったので、主に海を監視するために築かれたのでしょう。
スポーツセンターに隣接する形で、道の駅「風早の郷 風和里」があります。
愛媛県では20番目の道の駅として、平成15年(2003)3月にオープンしました。
砥鹿山の北麓に砥鹿神社がありますが、地名と社名の関係、どちらが先立ったなどは不明です。
祭神は、大穴牟遅命です。
愛知県にも同名の砥鹿神社(三河国の一之宮)があります。
祭神は大己貴命。
大穴牟遅命と大己貴命は共に、大国主の別称です。
三河から奉遷された可能性も考えられますが、神社の由緒が伝わっていないため、不明です。
また、毎年9月10日、祭礼奉納相撲「砥鹿相撲」が行われていました。
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